スターの座を捨て、
自分の愛する音楽を追い求めた
英ロック界の永遠のヒーロー、
ロニー・レーン。
“スリム・チャンス”時代の名盤と
貴重音源をたっぷり網羅した
ボックスセット

『パッシング・ショー』なる一座が
移動式テント劇場で田園地帯をドサ回り

ロニーとスリム・チャンスは、フェイセズや同時期にメジャー活動しているロックバンドのように大きな会場や大規模な海外公演などほとんど行なわず、英国内の田舎を演奏して回った。「パッシングショー」と名付けられたそのツアーはレコーディング、PA機材を積んだトレイラー、そこに移動式のサーカス一座、旅芸人を伴ってのもので、それらの費用はほとんどロニーの個人資産をつぎ込んでのものだったという。当時、記録された映像などで断片的に目にするものや、近年になって制作されたアンソロジー映画ともいうべき『ロニー、ModsとRockが恋した男(原題:The Passing Show - The Life & Music of Ronnie Lane)』で知るそれは、実に楽しそうなどさ回りの一座で、実際にロニーはやっていて心底嬉しかったのだと思う。が、当然のことながら赤字続きで、かさむ費用、負担がのしかかってくる。次第にバンドも消耗していく。挙げ句に経理担当の男に売上金や蓄えを持ち逃げされるという事態に見舞われる。心底参ったはずだが、悲壮感を漂わせることなく健気に笑っているロニーの姿など見るとグッと来る。ロッド・スチュワートやストーンズ、同期のロックスターたちは華やかな日々を謳歌しているのに対し、自ら選んだ道とはいえ、彼は破産状態に陥っている状況。採算を度外視したようなパッシングショーの企画にはそもそも無理があったと思う。それでも彼を駆り立てたのは、彼が夢を追う人だったからだ。米国南部でかつては音楽と大衆芸能を融合させた「ミンストレルショー」や「メディシンショー」というものがあり、それはブルースやヒルビリー、カントリー、ウェスタン・スウィングといった音楽が少なからず大衆に浸透していくきっかけになったものなのだが、そこにロニーは強い憧れがあったのに違いない。簡単に紹介するのは難しいが、メディシンショーについて言えば、例えば薬の行商人が村々を回り、露天商を開く際に、呼び込みや客寄せにバンドや歌手を雇ったというものだ。一方、ミンストレルショーはコミカルな大衆演劇のようなもので、その伴奏音楽に、今日で言うルーツミュージックが使われていたのだ。「オー・スザンナ」や「草競馬」で知られるスティーヴン・フォスターもミンストレルーショーの作曲家だった。米国のルーツ音楽、大衆音楽を辿っていくと、決まってミンストレルショーやメディシンショーとの関係が浮かび上がってくる。ロニーは自分のバンドでそれを実践してみたかったのではないか。それが例え注目を浴びることも、ヒットする可能性さえも、ほんの少しの機会(スリム・チャンス)しかなくても。

OKMusic編集部

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