サザンソウルの完成形とも言える
オーティス・クレイの
圧倒的な傑作『愛なき世界で』

『Trying To Live My Life Without You』(’72)/Otis Clay
ノーザンソウルとサザンソウル
ライヴハウスが盛況だった70年代中頃の日本では、関東ではポップスやノーザンソウルに人気が集まり、関西ではブルースやサザンソウルが好まれていたと記憶している。僕は関西在住なので範囲は限られるが、当時の人気バンドを思い出してみると、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ソー・バッド・レビュー、ブレイクダウン、ウエスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルースとサザンソウルを得意とするグループが非常に多い。関西(神戸は除く)の気質がアメリカ南部のそれと似ていたのかどうかは分からないが、洗練されたものよりも泥臭くルーツ色の濃いサウンドが関西圏で好まれていたのは事実である。
ハイ・レコード
ハイは1957年に設立、当初はビル・ブラック・コンボやエルヴィス・プレスリーらの在籍したサン・レコードの亜流であった。ソウル風味のあるインストとロカビリー作品を中心にリリースしていたが、正式な音楽教育を受けたウィリー・ミッチェルが社内で頭角を表し始める60年代後半に、ハイは新たな方針を打ち出す。
ハイの設立者のひとりで、ハイを退社したのちにジェームズ・カー、スぺンサー・ウィギンスといった優れたサザンソウル・シンガーを擁したゴールド・ワックス・レコードを設立したクイントン・クランチに影響を受けたのかどうかはわからないが、ブルースやR&Bからジャズに至るまで、さまざまな音楽に精通しているウィリー・ミッチェルが目指したのは“黒人にも白人にも売れるレコード”であった。それは言い換えれば白人のカントリー音楽と黒人のR&Bの中間的なサウンドで、それこそがサザンソウルという音楽の骨格なのである。
ミッチェルの目指すサウンドを実現するのがシンガーのアル・グリーンと、ミッチェル自らが育てたホッジズ3兄弟であった。ティーニー(Gu)、リロイ(Ba)、チャールズ(Key)ホッジズ兄弟に加え、ハワード・グライムス(Dr)、スタックスのハウスバンドのブッカー・T&ザ・MGズのドラマー、アル・ジャクソン、そしてメンフィス・ホーンズをバックに起用したアル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」(’71)が全米1位となる大ヒットとなり、ミッチェルのプロデュース手腕は大いに認められる。ここからアン・ピーブルズや彼女の夫のドン・ブライアント、オーティス・クレイ、シル・ジョンソンなど、ミッチェルのプロデュース&アレンジで、ハイならではの特徴を持った曲を生み出していく。
オーティス・クレイ
クレイはこのレコーディングでミッチェルに誘われ、71年ハイに移籍することになる。