グランド・ファンク・レイルロードが
後進に影響を与えた
アメリカンロックの傑作
『アメリカン・バンド』
60年代後半にやってきた
ハードロックの隆盛
大掛かりなPA設備を携えたクリーム、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープルらは、大音量をコントロールすることでハードロックの黎明期を支えたのである。アメリカではブルー・チアーやMC5といったグループがすでにハードロック(ガレージロックでもある)を演奏していたが、世界的に知られている最初期のアメリカンハードロックグループはGFRであろう。
ツェッペリンの前座と
後楽園での来日公演
69年にアトランタ・ポップ・フェスでデビューしたGFRは、インパクトのあるステージングでツェッペリンと比べられる存在となる。そして、それを知ったツェッペリンサイドからアメリカツアーの前座として起用されることとなり、主役のツェッペリンを差し置いて何度もアンコールを要求されたことが大きな話題を呼んだ。「ツェッペリン以上の人気を博したGFR」という記事を載せたメディアもあったようで、デビュー間もない時期にもかかわらず、ツアーやフェスに引っ張りだことなる。特に、71年のシェアスタジアムでのコンサートは、それまでのスタジアムの興行収入の最高記録を保持していたビートルズを抜き、トップに立った。同じ71年には来日公演も行なわれ、嵐が吹きすさぶ後楽園球場でのコンサートは今でもロックファンの間では語り草になっている。この来日公演で日本でのGFR人気は最高潮となった(僕は当時中2だったし関西在住なので行けなかった…)。
GFRの音楽
5枚目の『サバイバル』(’71)、6枚目の『戦争をやめよう(原題:E Pluribus Funk)』(’71)は悪いアルバムではないが、プロデューサーのテリー・ナイトと衝突することが増え、平均点以上ではあるものの名曲を生み出すまでには至らなかった。続く『不死鳥(原題:Phoenix)』(’72)ではとうとうテリー・ナイトと決別、セルフプロデュース作として新たなスタートを切る。セールス的には好調を維持しているものの、過渡期的な作品である。この時期、ディープ・パープルやツェッペリンなどのイギリスのハードロック勢に押されて、GFRの集客力は陰りを見せており、次の一手を早急に考えなければならない局面を迎えていた。
本作『アメリカン・バンド』について
トッドの助言であろうがリズムはシンプルかつタイトになり、フロストのキーボードが占める割合がかなり多くなっている。ファーナーのギターについても、オールマン・ブラザーズの大ヒットアルバム『ブラザーズ&シスターズ』(’73)の人気にあやかってか、弾きまくるのではなくツインリード(オーバーダブによる)やサザンロック風のメロディックなフレーズで勝負している。
面白いのは、これまでメインのソングライティングと殆どのリードヴォーカルをマーク・ファーナーが担当してきたが、トッドのプロデュース下ではドン・ブリューワーの書いた(もしくはファーナーとの共作)曲が一気に増えていることだ。リードヴォーカルもファーナーと4曲ずつを担当しており、トッドはブリューワーのソングライティングだけでなく、ヴォーカリストとしての才能も引き出している。GFRのアイコン、ファーナーにしてみれば気分が悪かったかもしれないが、そういった様々な工夫もあってシングルカットしたタイトルトラックは全米1位を獲得(ブリューワーの作詞作曲およびリードヴォーカル)、アルバムもこれまでの最高となる2位まで上昇し、トッド・ラングレンの目の付け所が間違いではなかったことが証明される結果となった。
また、“American Band”という言葉がグループのキャッチフレーズとして定着、本作はGFRの再ブレイクを成し遂げるきっかけとなった。本作の成功により、次作もトッドがプロデュースを手がけることに決まり、そのアルバム『輝くグランド・ファンク』では「ロコモーション」(リードヴォーカルはファーナー)のビッグヒット(全米1位)を生み、GFRの名は永遠のものとなるのである。
ちなみに、『不死鳥』(’72)から『アメリカン・バンド』(’73)、『輝くグランド・ファンク』(’74)、『ハードロック野郎(世界の女は御用心)』(’74)まで、グループ名は“グランド・ファンク”に改名しているが、結局は元に戻すことになるので、本稿ではすべて“グランド・ファンク・レイルロード”で統一した。
TEXT:河崎直人