ノーベル文学賞受賞記念! 70年代に
おけるボブ・ディランの代表作『プラ
ネット・ウェイヴス』

少し日が経ってしまったが、作家でない人間がノーベル文学賞を受賞するという快挙(暴挙?)は、ファンはもとより、ディランを聴いたこともない人たちまで巻き込んだ大きな出来事であったと思う。そんなわけで今回は、本コーナーでは2回目の登場となるボブ・ディランを紹介する。1966年の有名なバイク事故以降、彼が大々的に人前に出るのは74年のザ・バンドとの「ビフォー・ザ・フラッド・ツアー」であった。そのツアーと同時期に本作『プラネット・ウェイヴス』はアサイラム・レコードからリリースされ、ディランのアルバムとしては初のビルボード1位を獲得、大きな話題となった。70年代の“偉大なる復活”に相応しい名盤だ。

プロテストソングの旗手としてのディラ

おそらく、これを読んでいるのはボブ・ディランの名前は知っていても、彼の音楽を聴いたことがない人が多いと思うので、『プラネット・ウェイヴス』のリリースまでの歩みを、僕なりに簡単にまとめてみることにする。
1962年に『ボブ・ディラン』でデビューしたディランは、同時期に活動していた他のフォークシンガーと同様、ブルースやフォークなどのトラディショナル作品をカバーしていて、特徴と言えば妙な癖のあるヴォーカルと巧みなギターワークぐらいであったかもしれない。しかし、翌年にリリースされた2ndアルバム『フリー・ホイーリン・ボブ・ディラン』では大きな成長を遂げ、「風に吹かれて(原題:Blowin’ In The Wind)」「北国の少女(原題:Girl From The North Country)」「戦争の親玉(原題:Masters Of War)」「くよくよするなよ(原題:Don’t Think Twice, It’s All Right)」「はげしい雨が降る(原題:A Hard Rains A-Gonna Fall)」など、現在まで歌い継がれている彼の代表曲がたくさん収められた作品となった。ノーベル賞の選考においても、このアルバムが大きな比重を占めたと思われるが、いずれにしても20歳を過ぎたばかりの若者が創り上げたとは思えないほどの充実した内容であった。政治に対する抗議や戦争の無意味さなどについて、直接的・間接的に問いかけるなど、この時点でディランは既にプロテストソング(1)を歌う代表的な歌手として認知されることになる。続く『時代は変る』(‘64)でも鋭い政治風刺やプロテストソングを繰り出し、彼の人気は不動となる。特にイギリスでの人気は高く、ジョン・レノンをはじめとした多くのミュージシャンに、歌詞の面で影響を与えていく。

フォークからロックへの“転向”事件

そして、ポピュラー音楽界を震撼させる、あの“転向”事件が起こった。1965年の『ニューポート・フォーク・フェス』でディランはエレキギターを持ちバックにブルースバンドを従えて出演し、原理主義的なフォークファンから罵声を浴びさせられるという事件にまで発展する。その後リリースされたのが、まさしくロックアルバムの『追憶のハイウェイ61』(‘65)で、ここからシングルカットされた「ライク・ア・ローリングストーン(原題:Like A Rolling Stone)」は全世界で大ヒット、煽るような歌詞と激しい演奏はロックが反体制だということを証明するような画期的な作品となる。この作品のリリース以降に登場してきたロックミュージシャンへ与えた影響は多大で、多数のフォロワー(ディランズ・チルドレンと呼ばれる)を生み出すことになった。
特に歌詞の面では、難解さや文学的な表現が見られるようになり、ロックの歌詞はこのアルバムでディランが完成させたと言ってもよいのではないか。1970年代に入ると日本でもディランの歌詞に対する評価は絶大なものになり、『ボブ・ディラン語録』(’73)『ボブ•ディラン全詩集』(‘74)などの書籍が相次いで出版された。
次の『ブロンド・オン・ブロンド』(’66)は2枚組(本作が、ロック界初の2枚組作品と言われるが、僕はそれについては未確認)でリリース、彼の音楽的および詩的才能が十分に発揮された名盤で、このアルバムを彼のベストとするファンは少なくない。それぐらい名曲揃いなのである。前作の激しさとは違い、フォークロックやブルースロックを中心にしたシンガーソングライター的な雰囲気を持つアルバムだ。中でも「女のごとく(原題:Just Like A Woman)」は、何十年と聴き続けているが、いつ聴いても唸らされるほど素晴らしいナンバーだ。
余談だが、この頃からザ・バンドのメンバーとツアーに出るようになり、両者の才能は相乗的に高まっていく。そして、ロック史上最高のアルバムのひとつであるザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(‘68)が生み出されることになるのだが、このアルバムにはディランとの共作となる楽曲も収録されている。

ウッドストックでのバイク事故と休養期

ディランは『ブロンド・オン・ブロンド』をリリースしたのち、ウッドストックでバイク事故を起こして、1年半にも及ぶ休養期間が始まるわけだが、近所に住むザ・バンド(この時点ではザ・ホークス)のメンバーと、フォーク、ブルース、ブルーグラスなどのカバー曲やオリジナル曲を延々と録音する日々を送っている。ただし、この録音は販売目的ではなく、自身の原点と未来への展望を見出すトレーニングのためであった。ディランにとって(もちろんザ・バンドにとっても)、この充電期間は大きな意味を持っていると僕は思うし、しばらくの期間ディランのバックバンドとして活動するザ・バンドとの信頼関係を築けたことも大きな収穫であった。
事故以降、ディランは自身のライヴ活動を74年まで休止するが、スタジオ録音盤はちゃんと出している。ウッドストックでのデモ録音(のちに『地下室(原題:The Basement Tapes)』としてリリースされる。2014年にはコンプリート盤と銘打って6枚組が出た)を繰り返していたルーツ的なサウンドを糧にして、『ジョン・ウェズリー・ハーディング』(‘68)『ナッシュビル・スカイライン』(’69)『セルフ・ポートレイト』(‘70)『ニュー・モーニング』(’70)を制作、この時代のアルバムはどれも力作だが、『ナッシュビル・スカイライン』では正調カントリーに挑戦、普段とは違う美声を披露している。この作品はザ・バーズの『ロデオの恋人』(‘68)と並んで、70年代初頭に流行したカントリーロックの先駆けとなる試みであったと思う。
個人的な話で恐縮だが『ジョン・ウェズリー・ハーディング』に収録された「見張り塔からずっと(原題:All Along The Watchtower)」「アイル・ビー・ユア・ベイビー・トゥナイト(原題:I’ll Be Your Baby Tonight)」、『ナッシュビル・スカイライン』に収録された再演の「北国の少女(原題:Girl From The North Country)」や「ナッシュビル・スカイライン・ラグ(原題:Nashville Skyline Rag)」「レイ・レディ・レイ(原題:Lay Lady Lay)」などは、僕が中学生の頃に聴き、ブリティッシュハードロック少年からアメリカンロック少年へ“転向”した思い出深い楽曲群である。

映画俳優として復活…?

1970年代に入っても、ディランはなかなか腰をあげようとはしなかった。ジョージ・ハリスン主催の『バングラデシュのコンサート』(‘71)や、ザ・バンドの『ロック・オブ・エイジズ』(’72)への参加はロックファンなら誰もが知ってはいたが、ディラン自身のコンサートは依然としてやらずじまいで、とうとう1973年になってしまった。
そんな時にようやく彼は動いた。ライヴではなく俳優として…。それがサム・ペキンパー監督の映画『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』への出演だった。この映画に何秒かだけ登場するのだが、それには今回は触れないでおく。それより、この映画のサントラからシングルカットされたディランの「天国への扉(原題:Knockin’ On Heaven’s Door)」(‘73)が大ヒットしたことは重要だ。このヒットが刺激になったのかどうかは分からないが、公の場への復帰を決めたきっかけとなったことは間違いないだろう。この曲はカバーも多いし(2)、ラジオなどでも時々かかっているので、若い人でも聴いたことがあるのではないだろうか。

本作『プラネット・ウェイブス』につい

さて、お待たせしました。いよいよ本題である。73年に復活したディランは、デビューからずっと在籍していたコロンビアを離れ、新生アサイラム(3)へと移籍し、盟友ザ・バンドとタッグを組んで74年にリリースしたのが、本作『プラネット・ウェイヴス』である。
この作品は、あまりにもザ・バンド色が濃いので、ディラン作品と呼ぶべきでないかもしれない。しかし、ザ・バンドの音楽はディランとのプチ共同生活から生み出されたものでもあるし、ここではザ・バンド featuring ボブ・ディランというスタンスで紹介すべきだと思うのだ。何より本作は、ディランの数多いアルバムの中でも特筆すべき名盤のひとつであることは間違いのない事実で、収録されたナンバー全てが名演名唱だと思う。
当時、ディラン自身も本作を気に入っていたようで、その証拠にこのアルバムのリリースに合わせ、8年振りの大きなツアーを行なっているのだ。ツアーの模様は次作の2枚組ライヴ盤『偉大なる復活(原題:Before The Flood)』に収録されているので、興味のある人は併せて聴いてほしい。
ディランのヴォーカルを最大限に活かすザ・バンドのいぶし銀のような演奏は、ただただすごいとしか表現できないが、エリック・クラプトンもジョージ・ハリスンもエルビス・コステロも、本作の高みに到達する音楽を創造するために、日々切磋琢磨していたこともまた真実なのである。それほどのミュージシャンがボブ・ディラン(ザ・バンドもね)という男なのだ。

本作以降の活動

本作のあと、古巣のコロンビアに戻り『血の轍(原題:Blood On The Tracks)』(‘75)『欲望(原題:Desire)』(’76)という2枚のこれまた秀作を発表、その後は、ロジャー・マッギン、ランブリン・ジャック・エリオット、Tボーン・バーネット、デビッド・マンスフィールド、ボブ・ニューワースらと新しいプロジェクト「ローリング・サンダー・レヴュー」を結成、長い世界ツアーを行ない来日公演も果たしている。このプロジェクトではディランの化粧した姿も見られ、またまたファンを驚かせることになったのである。
これ以降のエピソードについては、また別の機会に書いてみたい。

オマケ:結局、ノーベル賞の事務局はディラン本人と連絡することを断念したみたいで、これってディランらしいエピソードだと思う。
(1) プロテストソング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0

(2) 天国への扉(カバーしているアーティストが明記されている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89_(%E3%83%9C%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%9B%B2)

(3) アサイラム・レコード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89

著者:河崎直人

OKMusic編集部

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