ニール・ヤングや
ブルース・スプリング
スティーンから絶大な信頼を得る
ニルス・ロフグレンの
ソロ第3作『稲妻』

『I Came to Dance』(’77)/Nils Lofgren
ニール・ヤングとの出会い
同じ頃、ヤングはソロアルバムのためのバックバンドを探すためにライヴハウスを回り、ウィスキー・ア・ゴーゴーで旧知の6人組、ザ・ロケッツを観て、メンバーのうちラルフ・モリーナ(ベース)とビリー・タルボット(ドラム)、そしてダニー・ウイットン(ギター)の3人をサポートメンバーとして参加するよう要請する。ロケッツはデビューアルバムをリリースしていたが売れなかったし、ヤングはすでにスターであったため選択の余地はなく、彼ら3人はクレージー・ホースとして独立することになった。そして、リリースされたのが『ニール・ヤング・ウィズ・クレージー・ホース(原題:Everybody Knows This Is Nowhere)』(‘69)である。ヤングのソロ2作目となるこのアルバムは全米チャートで34位となり、クレージー・ホースの面々も大いに注目される結果となった。余談だが、このアルバムには「Running Day(Requiem for The Rockets)」という泣ける副題の付いた曲が収録されている。
『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』
ほかに参加
このアルバムでのロフグレンの仕事についてヤングは満足しているようで、クレージー・ホースのデビューアルバム『クレージー・ホース』(‘71)にはメンバーとして参加させ、スティーブン・スティルスの『スティーブン・スティルス 2』(’71)にもギター、キーボード、ヴォーカルの3役で送り込むぐらい彼の才能を買っていたのである。スティルスのアルバムでギターを弾いているのはロフグレンとエリック・クラプトンであり、メジャーデビューしたばかりの20歳のロフグレンにとって、『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』以降は夢のような最高の日々だったに違いない。
グリンのデビューと解散
1971年、グリンのデビューアルバム『グリン』がデビッド・ブリッグスのプロデュースでリリースされた。ニール・ヤングとクレージー・ホースが3曲に客演、彼らのデビューに花を添えた。続けて、グレアム・ナッシュをゲストに迎えた『1+1』(‘71)、ニルスの弟トム・ロフグレンが新たに加入した『オール・アウト』(’72)を出すも決定打に欠け人気は低迷、心機一転を図りA&Mに移籍する。73年にゲストを迎えずメンバーの4人だけで『ゴーン・クレイジー』をリリースするが、またしても商業的にうまくいかず、グループ内に緊張が高まり、結局は解散してしまう。グリンはフォークロック、カントリーロック、ルーツロックなどいろんな側面を見せたが、ロフグレンのロックしているギターが生かされず、不完全燃焼のままに終わってしまった。ただ、最終作の『ゴーン・クレイジー』は硬質で緊張感のある音作りになっており、もう一枚制作していたら…とも思うのだが、メンバー間の軋轢がそれを許さなかった。