天才アーティストとしての
才能が開花した
ドリー・パートンの『ジョリーン』

『Jolene』(’74)/Dolly Parton
極貧の環境からナッシュビルへ
高校卒業後(家族の中で高校まで出たのは彼女だけである)、翌日にはカントリー音楽のメッカとして知られるナッシュビルに叔父と一緒に行き、ふたりで曲を作るようになる。しばらくするといくつかの曲がチャートに乗るヒットとなり、19歳で新興のモニュメントレコードと契約が決まるものの、レコード会社はポップ歌手としてドリーを売り出している。彼女はカントリーシンガーになりたかったが、実績を作るまでは我慢することを選び、シンガーとして務めながら曲作りを続けた。
彼女の歌う曲は売れなかったが、そのうち彼女が書いた曲(ただし、クレジットはなし)がチャートの6位まで上昇、ここでカントリーシンガーへの転身をレコード会社に願い出る。モニュメントは彼女の転身を受け入れ、デビューアルバムのレコーディングを開始、収録曲12曲のうち彼女単独のオリジナル曲が3曲、叔父のオーウェンスとの共作が7曲収められた。このアルバム『ハロー、アイム・ドリー』(’67)からは自作ではないが「ダム・ブロンド」(24位)と「サムシング・フィッシィ」(17位)の2曲がヒット、アルバムも11位となり上々のスタートを切った。ショッカビリーのメンバーで前衛ジャズギタリストのユージーン・チャドボーンは、このアルバムをドリーの個性がよく出た名作と位置付けている。
ポーター・ワゴナーとのデュエット時代
また、ワゴナーの援助でドリーはモニュメントから大手のRCAレコードへ移籍、ソロアルバムを制作し続けるのだが、ワゴナーにしてもドリーにしてもソロではデュエットの時のような大ヒットが生まれず苦しい思いをしている。
ただ、ドリーの書く曲は着実に進化しており、それが開花するのは7thアルバム『ジョシュア』(’71)で、タイトル曲がソロで初のチャート1位を獲得、第14回グラミー賞にもノミネートされるなど、このアルバムから彼女の才能が花開き始めることになる。続く8thアルバム『コート・オブ・メニー・カラーズ』(’71)のタイトルトラック(全米4位)は、母親が端切れをつなぎ合わせてコートに仕立てる貧しかった自身の子供時代のことを歌ったもので、エミルー・ハリスやシャナイア・トゥエインらがカバーしており、彼女の代表曲のひとつとなった。このアルバムは他にもブルーグラス・スタイルの「マイ・ブルー・ティアーズ」やゴスペルに影響された彼女の出自がわかる名バラード「ヒア・アイ・アム」など名曲揃いで、彼女の代表作の一枚である。このアルバムは初めてトップテンに食い込む結果(7位)となり、ドリー・パートンはシンガー(めちゃくちゃ上手い)として、またソングライターとしても万人に認められるアーティストとなった。
73年には、故郷への郷愁をテーマにした全曲ドリーの自作曲ばかりで占められたコンセプトアルバムで11枚目のソロ作となる『マイ・テネシー・マウンテン・ホーム』をリリース、タイトルトラックはマリア・マルダーがカバーするなど、彼女のオリジナルでもっともよく知られた曲のひとつになった。