一周忌のタイミングで発売されるジョ
ニー・ウィンター2枚組ベスト盤『A
Rock'n'roll Collection』

 そろそろ亡くなって1年が経とうとしている、ジョニー・ウィンター。かけがえのない、不世出のギタリストだったと思う。その命日7月16日にあわせるように総括的な2枚組ベストアルバム『A Rock'n'roll Collection』(日本では7月21日発売予定)がこのほど組まれ、iTunes Storeではダウンロード可能となっている。元気な頃の、ギブソンのファイヤーバードを手にしたジョニーの姿も決まっている。内容をチェックすると、いきなりライヴでの「Johnny B. Goode」から始まり、代表的なナンバーを網羅しつつ、未発表音源も加えているという体裁。全体にエレキでハードに飛ばしているナンバー、ブルースでトーンは統一されている風だが、アコースティックセットもうまい具合に挟み込まれ、メリハリの効いた、バランスの良いベスト盤である。古くからのファン、これからジョニーを聴いてみようかという方にはまず、このアルバムに手を伸ばされてみてはいかがだろうか。

 さすがに、最近では言われなくなったかと思うが、70年代くらいまでは、ギターヒーローといえば何とかのひとつ覚えのように三大スーパーギタリスト(クラプトン、ベック、ペイジ)が引き合いに出され、それをマジに受けて彼らを信奉するアマチュアが多かったものだ。もちろん、素晴らしいギタリストたちには違いない。未だに挑戦的、あるいは求道的にギター道を歩み続けているジェフ・ベックなどは、真にスーパーギタリストの名に恥じない存在だと思う。けれども、いろんな音楽がある中で、ロックだけでもさまざまなスタイルのものがあり、カントリー寄りのもの、ジャズに近いもの、ソウル、ファンク、ブルースロックと知るうちには、三大スーパーギタリストがダントツに優れたギタリストでも何でもなく、テクニック、センスともに彼らよりもっと上手いギタリストはいくらでもいることを知るのが普通だ。
 デュエイン・オールマン、ロイ・ブキャナン、ライ・クーダーにデヴィッド・リンドレー、ロリー・ギャラガー、アルバート・リー、ヘンリー・マッカロー、マイク・ブルームフィールド、ローウェル・ジョージ、ジェームス・バートン、クラレンス・ホワイト、トニー・ライス…と挙げ続ければキリがないと思われるが、そうした本当はすごいけれど、音楽雑誌のカラーグラビアを飾ることは格段に少ない、というギタリストの中にジョニー・ウィンターも含まれていたかと思う。
 今となってはそれさえも十分に偏見だった。ジョニー・ウィンターの場合はそのビジュアルを目にして、伸ばしかけた手を引っ込めた人もいたはずだ。なにせ、生まれながらにしてアルビノ(白子)で、髪も皮膚も色素のない真っ白だった。眼球は赤く、しかも斜視ときた。その彼が長髪を振り乱してステージでギターを引き倒している姿はさながら白い悪魔そのものだった。そのうちノースリーブで、あるいは上半身裸でギターを弾く写真を見ると、その白い肌の胸から腕にはタトゥーが彫られており、いっそうルックスに凄みを加えていたものだ。彼の口からは子供の頃に外見から偏見や差別を受けて云々の話を聞いたことはないが、当時のアフリカ系アメリカ人がそうであったように、保守的な気風で知られる南部、テキサスという環境で育った彼が何らかの悪意にさらされたであろうことは想像に難くない。それだからなのかどうか、彼の滲み出るようなブルース愛には、単なる憧れや尊敬からプレイするというものではない、自らのアイデンティティーを訴えてくるというか、心情に迫るものを感じさせるのだ。
 初めて彼のアルバムを聴いたのは『Live Jonny Winter and』('71)で、最初から仕舞いまで熱いそのライヴ盤の中でも、十八番とも言うべき「Mean Town Blues」が流れる頃には、同じ頃に聴いていたクリームの代表作『Wheels of Fire 素晴らしき世界』('68)が水で薄めたブルースロックのように聴こえはじめ、クラプトンのギターも生やさしく響いてしまうほど、そこから繰り出されてくるジョニー・ウィンターの本気のブルース度には脳味噌を吹っ飛ばされるような衝撃を受けたものだ。それはもう、一音一音の響きの中に、白人がプレイしているブルースだとは思えないような深みを感じさせるものだった。
 映像作品もいくつか残されているが、観るとウィンターの手がかなり大きいことが分かる。同じ『ウッドストック・フェス』に出演していたジミ・ヘンドリックスが手の大きさを指摘されることが多いが、かなりの音域を駆け巡るジョニーのフレージングの妙には、ギターフレット上のスケールを幅広くカバーする手の大きさはやはり有利に働いたのだろう。そして、特徴的なのはジョニーはサムピック(親指に付ける)を使用し、それと人差し指、中指を駆使したピッキングを行なっていることだ。サムピックを使ったピッキングはカントリー系のギタリストに多いものだが、あの高速で正確な音を弾き出すジョニーのギターの大きな特徴のひとつだろうと思う。ライヴではワイルドさの陰に隠れてピッキングの正確さを意識させなかったりするが、この人のピッキングは本当にしっかりしている。スタジオ作などで聴くと、その上手さをより認識しやすいかもしれない。もうひとつ、素晴らしいのは彼のボトルネック(スライド)奏法だ。どのアルバムでも必ず、少なくとも1曲はエレキで、あるいはアコースティックのドブロでこのボトルネックの演奏を披露しているが、背筋がゾクッとなるようなプレイが聴ける。今回取り上げた2枚組ベストアルバム『A Rock'n'roll Collection』の中に収録されている「TV Mama」などは、その代表的なプレイだろうか。

ブルースを弾くために生まれてきた男

 ジョニーは1944年にテキサス州のビューモントという町で生まれている。両親ともにミュージシャンという音楽一家で、弟のエドガーもキーボードやサックス、他を操るマルチプレイヤーとして名を馳せ、後に彼もまたエドガー・ウィンター・グループを率いてロックシーンで活躍したことはよく知られている。ジョニーは最初、クラリネットを手にするが、やがてギターに転向。独学でレコードに合わせてジャムをしながら奏法をマスターしていく。ブルースやロックに惹かれ、短期間のうちにレコードコレクターになり、そのほとんどのアルバムをコピーしていった。文字通り手当たり次第に。最初に手にしたギターは祖母からもらった粗悪なアコースティックギターだったらしく、それでも我慢して使い、弟のエドガーとタッグを組んで数々のコンテストに出場しては入賞を重ねていく。練習のかたわら芝刈りやゴミ運搬などのアルバイトで必死でお金を貯め、自力でギブソンES-125を買ったという。そして、早くも15歳の時に組んだバンドで地元のレーベルからシングルをリリースし、それが彼のキャリアの最初のスタートになる。ちなみに曲は「School Day Blues」。
※兄弟ともにミュージシャンという点でも、ジョニーは同郷のギタリスト、スティーヴィー・レイ・ヴォーンと共通項が多い。スティーヴィーの兄のジミー・ヴォーンも名の知られたブルースギタリストだ。また、そもそも高校卒業後、オースティンで活動していた若き日のスティーヴィーを発見したのがジョニーだったと言われていおり、後年、スティーヴィーのバンド、“ダブルトラブル”のベーシストは長くジョニーのバンドに在籍したトミー・シャノンが務めているなど、何かと縁があったふたりだった。
 ウィンターはブルースのレコードを通じて、レギュラーチューニングによるギターとオープンチューニングを使ったスライド奏法の両方をマスターする。後にドブロを使った絶品のスライドも多く残しているのだが、お手本にしたのはマディ・ウォータースのアルバムだという。他にアコースティックによるスライドはサン・ハウスやロバート・ジョンソンの影響が強いそうだ。
 高校を卒業すると大学には進学せず、専門学校に進むが、ほとんどは音楽活動に没頭し、シカゴに旅行した際には、観光など一切せず現地のブルースクラブに入り浸ったという。地元テキサスではR&Bやブルースのローカルバンドに加わってひたすら腕を磨く。
 1968年、トミー・シャノン(ベース)、アンクル・ジョン・ターナー(ドラムス)らを迎え、マイナーレーベルからデビューアルバム『The Progressive Blues Experiment』をリリースする。これが評判となり、翌年に大手CBSと契約し、アルバム『Johnny Winter』をリリースする。このCBSとの契約金が当時の金額で数十万ドルと巨額であったことから「100万ドルのギタリスト」の名で呼ばれるようになる。彼の名を世界中に広めるきっかけとなった最も有名なエピソードだろう。このアルバムはウィリー・ディクスン、ウォルター・ホートンら大物黒人ブルースミュージシャンが参加した本格的なブルースアルバムだった。同年、40万人以上を集めた『ウッドストック・フェス』にも出演。同フェスを記録した映画では、ウィンターのシーンはわずかなものでしかないが、今ではジョニーのパフォーマンスだけを抽出した作品もリリースされ、そこで観られる彼は今日よく知られるワイルドに、エレクトリックブルースを弾きまくる最高にカッコ良い姿が記録されている。ザ・フーやジミ・ヘンドリックス、テン・イヤーズ・アフターらのパフォーマンスが評判になったフェスだが、ジョニーの演奏部分が映画版『ウッドストック』でもフルで収録されていたなら、世間の評判はもっと大きなものになっただろうと思う。それでも『Second Winter』('70)、『Johnny Winter And』('71)あたりから、それまで一辺倒だったブルースにロック色を加え、結果的にはそれが大ブレイクにつながっていく。そうしてリリースされたライヴ盤『Live Jonny Winter and』('71)、少し後になるがやはりライヴ作『Captured Live』('75)などは、濃厚なブルースとヘヴィーなロックがいい案配でブレンドされ、そこに聴くものが呆気にとられるくらいのドライヴ感でジョニーが弾きまくる。
 70年代のジョニーはCBS、その傘下のBlue Skyといったレーベルからコンスタントに良作を生んでいった。特にローリング・ストーンズの「Silver Train」を収録した『Still Alive and Well』('73)はキャリア中最高のセールスを記録するなど、内容共に優れたアルバムとして押さえておきたい盤だ。ちなみにジョニーはストーンズの「Jumpin' Jack Flash」「Stray Cat Blues」などもカバーしているが、いずれも本家に劣らず好カバーである。
 その間には恩師とも言えるマディ・ウォータースのアルバム制作を手伝ったり、ジョニーはブルースに身を捧げるような、表向きの派手なイメージとは真逆の仕事もしているのだった。マディはその働きぶり、それ以上に白人以上に白いこの男が、自分たちと同じようなブルースをプレイすることに余程感心したのか、そして心を許せる相手と認めたのだろう、ジョニーのことを「我が息子」と呼ぶようになる。あのマディ・ウォータースにそこまで思われる人間なんて、他にいるだろうか。ジョニーは他にもジョン・リー・フッカーやソニー・テリーなどの大御所のアルバム制作を手伝っている。
 1980年代に入ると、ジョニーはアリゲーター・レコードと契約する。アリゲーターと言えば、シカゴに本拠を置くインディ系ブルース専門レーベルで、ハウンド・ドッグ・テイラーやクラレンス・ゲイトマウス・ブラウン、アルバート・コリンズ、ココ・テイラーといった通好みのアーティストの作品を手がけてきたレーベルだ。ジョニーはここで3作のアルバムをリリースするのだが、これまでの作品以上にブルース色が濃い内容となっている。このアリゲーター時代に何か確信するものをジョニーは掴んだのかもしれない。きっと、ブルースひと筋にやっていこうと決めたのだろうと思う。CBS時代に比べると、80年代以降にリリースされたアルバムは徐々にセールスを落としていったかもしれない。それでなくてもディスコやニューウェイブ、テクノ時代に、ギターヒーローは生きにくい時代だ。だが、ジョニーはブレることなくブルースをプレイし続けている。90年代などはPointblankというインディーズレーベルから『Let Me In ('91)と『Hey, Where's Your Brother?』 ('92)の2作品しか残していないのだが、いずれも内容は素晴らしい。もっとも、残したアルバムこそ少ないものの、ライヴ活動は旺盛に続けていたようだ。特に90年代後半にはアメリカンルーツミュージック再考の動きが音楽界に起こり、カントリーやフォーク同様にブルースにも世代を越えて注目が集まるようになり、それはジョニーの活動にも追い風となった。だが、皮肉なことに、このころから体調を崩すことが多くなったようだ。
 2000年代に入ってからは『I'm A Bluesman 』(2004)、『Roots』 (2011)の他に、いくつかのベスト盤が組まれたり、過去のライヴ音源からなる『Live Bootleg Series』と題されたものが数種出ており、映像作品まで入れると、まるで70年代の旺盛な活動期と変わらぬ人気を感じさせるものがあった。エリック・クラプトンの主宰で毎回開催されている『クロスロード・ギター・フェスティヴァル』にもジョニーは招かれて出演していたが、その姿と声には隠しようのない衰えがあった。あのワイルドだったヴォーカルはずいぶんと滑らかな声で歌われるようになっており、それはそれで経年という趣を感じさせ、決して悪くはなかった。重たいギブソン・ファイヤーバードは体に負担が大きいらしく、アールワイン社製「レーザー」という、ヘッドレスの個性的なデザインのギターを膝に載せて弾く姿が多かった。そして、4度にわたる日本公演を挟み、『Step Back Roots2』(2014)が最後のアルバムになってしまった。作品の最終的な完成をジョニーは見ていない。ツアー先のスイス、チューリヒでその命は尽きてしまった。ジョニーの死から2カ月後にリリースされたアルバムは翌年、2015年2月に第57回グラミー賞で最優秀ブルースアルバム賞を受賞し、ジョニー初のグラミー受賞を獲得している。受賞のセレモニーでは弟のエドガーが代わりにトロフィーを受け取っている。
 先述したジョニーの日本公演にも触れておこう。ジョニーの来日公演の働きかけは80年代から度々画策されていたようだが、なかなか実現しなかった。1990年3月にはついにジャパン・ツアーが告知され、チケット発売まで行なわれたものの、その直後に中止になっている。理由は不明だ。初来日公演は2011年、東日本大震災と福島原発事故直後の4月13~15日に実現した。前回のことがあったし、震災、原発事故から間もない時期で、欧米のアーティストが次々と公演を中止する時期でもあったから、今回もたぶん…と早々と諦める人がいたことを覚えている。ところが、ジョニーは来日し、公演は予定通りに行なわれたのだった。その出来は古くからの熱狂的なファンが歓喜の涙を流すほどの素晴らしいものだった。この時の公演の成功によって、自分のブルースを理解するファンが日本に多くいることを知ったジョニーは、それまで実現しなかったのが嘘のように、翌年、翌々年も来日公演を行なっている。2014年4月の来日でも思ったより元気そうな姿を見せてくれた。それだけに、離日からわずか3カ月後に届いた訃報には、絶句してしまったものだ。晩年の体力の衰えは見ていてつらいものがあった。2000年代に入ってから目にするジョニーのライヴの姿、そして日本公演はもう立つことは叶わず、車椅子に座っての演奏だった。それでもギターを弾かせればゾクゾクするようなプレイの連続だったし、あのウィンター節とも言える味わい深いヴォーカルも健在だったから、音楽仲間の間では「まぁ、若い頃の不摂生が」「ずっとガリガリに痩せてたから食が細かったのだろう」「骨粗鬆症には気を付けないとな」などと言い合ったものだった。
※文中で紹介した亡くなる3ヶ月前に実現した来日公演の音源が『Live From Japan』としてCD、そしてDVDでも発売されている。録音ではヴォーカルがややオフ気味ながら、往年のころと変わらぬギターがたっぷり聴ける。体調の悪さはあったはずだが、目前に迫った死など予感させないプレイだ。また、DVDではアンコールで日本のファンのために、ギブソンのファイヤーバードを手に演奏してくれたシーンなども見ることができる。
 享年70歳。生まれながらの身体のハンディも抑え込み、ひたすらギターを手にブルース道を歩み続けた揺るぎなさ、視点を変えれば、やりたいことを貫き通したというロックンロールな人生としては、たっぷり生きたほうではないかと思う。それでも、70歳をすぎてもなお旺盛な活動を続けているクラプトンやベック、それからキース・リチャーズなど、彼と同世代のヒーローたちの活躍ぶりを目にすると、そこにジョニーがいないのがたまらなく寂しいが、残してくれた名演の数々は簡単には忘れられるものではない。そう、一度聴いたなら誰だってジョニーのことは忘れられなくなるはずだ。

著者:片山明

OKMusic編集部

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