ジミー・ロジャースなくして
アメリカのポピュラー音楽は
ここまで育たなかったと、
聴けば聴くほど確信!

『The Rough Guide To Country Legends: Jimmie Rodgers』('13)/Jimmie Rodgers

『The Rough Guide To Country Legends: Jimmie Rodgers』('13)/Jimmie Rodgers

いつもは1960年代以降の音楽を取り上げているのですが、今回はさらに時代をさかのぼり、1930年代に生まれた音楽、それを書き、音源を残した伝説のアーティスト、ジミー・ロジャースを取り上げたいと思います。

ちなみにこの時代は記録媒体はSP(standard playing record)と呼ばれる78回転のレコードが主流(よほど裕福でなければ再生機=蓄音機は買えなかった。一般庶民はもっぱらラジオ、それさえ買えない家庭では自分たちで楽器を弾いて楽しんだ)で、裏表1曲ずつ、録音時間もせいぜい片面5分程度。要するに“シングル”が中心の時代でした。なので、ジミー・ロジャースもオリジナルアルバムというのが存在しません。後年、夥しい数の編集盤の類が世に出、それは現在も続いています。

それでも、何か看板になるアルバムをと、今回は2013年に編まれた編集盤『The Rough Guide To Country Legends: Jimmie Rodgers』(を選んでみました。廉価なプライスながら、ロジャースの代表曲、必要十分な25曲(76:50)を厳選、もう1枚のボーナスディスクにはカーター・ファミリーをはじめ、ロジャースと同時代の“ヒルビリー”と呼ばれたオールドタイムの25アーティストの曲を25曲(76:52)収録されています。全ての音源がスクラッチノイズなど、聞き苦しい箇所を適度に修正してリマスタリング、現代の耳でもとても聴きやすいものになっています。それで中身のほうは、これでもか!と濃い内容です。注目していただきたいのは、録音が古いだけで、この時代のアーティスト、ミュージシャンたちが、いかにオリジナリティーにあふれ、現代のものにも劣らない極上の音楽を作り、パフォーマンスを示しているかということ。大恐慌で国内がズタズタ、忍び寄る戦争の気運…。だから、庶民は音楽に救いを求めたのか? それに応えるべく、30年代の音楽のレベルはとてつもなくすごい!
※最も古い録音が「Just a Melody ~ Vernon Dalhart and Carson J. Robison」('26)

1897年に生まれたとされるロジャースの出身地はミシシッピ州という説がある一方、実はアラバマ州だともされ、諸説はっきりしていません。わずか6歳で母を亡くし、親戚の家を転々とたらい回しにされた挙げ句、父親に引き取られるものの今度はソリが合わず、家出をして放浪生活をしたそうです。その過程で出会った演芸人に感化され、次第に音楽に惹かれていったのだとか。その後、ニューオリンズで鉄道員の職を得てブレーキ係に就きます。後に「カントリー音楽の父」「ブルーヨーデラー」の他に、「歌うブレーキ係」というあだ名があったのはそんな理由からです。その時期、仕事場で、街で出会った黒人たちから歌やギターを習ったことが、彼の音楽性を形作る決定的なものとなるのです。彼の音楽性にジャズ、ブルース、ラグタイム、フォーク、ジャグバンド、ボードヴィル・ショーといった、人種の垣根を越えた音楽性を感じさせるのは、ニューオリンズに暮らしたということが何より大きいのだと思います。

鉄道員として日々の糧を得ていたロジャースでしたが、24歳の時に結核を患い、徐々に、彼は鉄道員以外の仕事を考えざるを得なくなります。そして、1927年7月下旬、ロジャースは、ビクター・トーキングマシン社の代表であるラルフ・ピアという人物が、地元のミュージシャンを募ってオーディションを行なうためにブリストルにやって来るというニュースを聞きつけます。結果、彼はこのスカウトオーディションに参加し、見事に合格して賞金(100ドル)を獲得するだけでなく、プロのアーティストとして矢継ぎ早にレコーディングを重ねていくのです。そして、ラジオでオンエアされるやヒットを連発! その短い経歴の中で出したシングルの総売上は1,000万枚を超えたと言われています。蓄音機もSPレコードもまだ庶民には高値の花であったはずのこの時代を考えると、驚くべきことではないでしょうか。

しかし、惜しいことに、ロジャースにはあまり命の時間は残されていませんでした。デビューからわずか6年、1933年にニューヨークのスタジオでレコーディング続けるさなか、ロジャースは結核の悪化のため、わずか36年の生涯を閉じます。死を目前にしたレコーディングは側に看護婦を待機させ、作業の合間にホテルに戻って休息してはスタジオに戻る…を繰り返すなどの壮絶な状況が伝わっています。

結核の治療薬として我が国でも知られるストレプトマイシンが用いられだしたのは1940年代半ばになってからのことなので、ロジャースが存命中の時代は、まだまだアメリカにおいても結核は「不治の病」だったのかもしれません。それだけにロジャースは憑かれたように創作とレコーディングに没頭したのでしょうか。残された楽曲は100曲以上にものぼると言われています。

OKMusic編集部

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