「ワンダフル・トゥナイト」
「レイ・ダウン・サリー」を収録した
エリック・クラプトンの
『スローハンド』

『Slowhand』(’77)/Eric Clapton

『Slowhand』(’77)/Eric Clapton

エリック・クラプトンは長い活動を通してリスナーにさまざまな顔を見せてくれている。ヤードバーズからクリーム時代はブリティッシュロック・ギタリストとして頂点に君臨し、デラニー&ボニーのバックを経てデレク&ザ・ドミノズの頃はスワンプテイストのサウンドを提示してくれた。また、ヘロイン中毒に打ち勝って再起したソロ時代には、アメリカ南部をモチーフとしたレイドバックサウンドを構築している。70年代中頃から終盤にかけてのクラプトンが好きな人も結構多いのではないだろうか。特に『461オーシャン・ブールヴァード』(’74)、『安息の地を求めて(原題:There’s One In Every Crowd)』(’75)、『エリック・クラプトン・ライヴ(原題:E.C. Was Here)』(’75)、『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(’76)、『スローハンド』(’77)、『バックレス』(’78)までの一連のアルバムはどれも水準が高い。クリーム時代の鋭く繊細なギタープレイが好きな人には物足りない面もあるだろうが、それらの作品ではブルースだけでなくカントリーやゴスペルなどのアメリカンルーツ音楽を彼なりに消化したもので、彼のオリジナリティーを感じさせる円熟したサウンドであった。今回は、なかでも彼のメロディーメイカーぶりが発揮された『スローハンド』を取り上げる。

デラニー&ボニーとザ・バンドの影響

1968年、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』がリリースされた。ブルース、カントリー、フォーク、R&B、ゴスペルなどの音楽を混ぜ合わせ再構築することで、流行とは無縁の唯一無二のロックサウンドを作り上げたザ・バンドの音楽を聴いて、当時クリームに在籍していたクラプトンは自分のやっている音楽に嘘っぽさを感じ、メンバー同士の仲違いもあってクリームを解散させてしまう。

その後、スティーブ・ウインウッドやリック・グレッチらと結成したブラインド・フェイス時代には早くもザ・バンドに影響された「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」をクラプトンは書いているのだが、このグループも残念ながら長続きしなかった。

ブラインド・フェイスのアメリカツアー中に参加したデラニー&ボニーのグループで本場アメリカのルーツロックに触れ、彼はその後スワンプロックへとシフトしていく。その成果はデラニー&ボニーの『オン・ツアー』(’70)と、その延長線上にある初のソロアルバム『エリック・クラプトン』(’70)、そして、デレク&ザ・ドミノズの『いとしのレイラ(原題:LAYLA and other assorted love songs)』(’70)で明らかにされるが、グループのメンバーはアメリカのロック界で多くのセッションに駆り出される名プレーヤーばかりであっただけに、クラプトン自身、グループが長続きするとは考えてはいなかったはずである。事実、グループはすぐに分裂してしまう。しかし、多くの優れたアメリカのアーティストたちとの交流は、クラプトンの次なるステップへの足がかりとなった。

ヘロイン中毒と再起

ここでクラプトンは3年近くもの間、ヘロインによって心身を病み一線から退くことになってしまう。旧友のピート・タウンゼントやロン・ウッドらによって73年に開催されたロンドンのレインボウ・シアターでの復帰コンサートでは、ギタープレイを単にこなしているだけで、まだ完全復活とは言えなかった。

彼が再起したのは74年の傑作『461オーシャン・ブールヴァード』である。このアルバムに収録された「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は大ヒットし、そのレゲエタッチのリズムは彼の新境地とも言えるものであった。また、このアルバムでは、ジョージ・テリー(Gu)、ディック・シムズ(Key)、ジェイミー・オールデイカー(Dr)、イヴォンヌ・エリマン(Vo)ら、以降のクラプトン・バンドの布陣が揃い、クラプトンがグループのリーダーとして采配を振るえるようになったことは、これまで自己主張の強かったメンバーとばかり組んできたのとは対照的に、心身の安らぎが“レイドバック”的なサウンドを生み出したのではないかと思う。

OKMusic編集部

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