『GRIP』は日本のパンクシーンを
形成してきたHUSKING BEEの
決意が詰まった瑞々しい一作
日本のパンクシーンの変遷
アイドルグループの多様化はそのシーンをつぶさに観察していないような自分でも何となく感じていたところではあったけれども、スクリーモ、引いてはエモ、ハードコアといったパンクから派生したジャンルも随分と大衆化したものだと思った。1980年代前半くらいまではパンクですら、まだアンダーグラウンドなものであった。忌み嫌われる音楽ジャンルだった…とまでは言わないけれども、パンク的なファッションは好奇の目にさらされるようなところがあったことは間違いない。田舎では基地の外にいる扱いをされるようなこともあったかもしれない。それがいくつかのエポックメイキングなバンドの出現により、シーンが隆盛を迎え、現在のように多種多様に分派した。日本において決定的なエポックと言えば、まず、先週のこのコラムで紹介した↑THE HIGH-LOWS↓の前身、THE BLUE HEARTSの登場だろう。今回の主旨とは若干離れているので、そこはここでは割愛するが、一点だけ──THE BLUE HEARTSの「パンク・ロック」の歌詞に、前述した当時のパンクが大衆的でなかったことと、そこから先の未来を予見していたような描写があるので、そこだけは記しておきたい。
《吐き気がするだろう みんな嫌いだろ/まじめに考えた まじめに考えた/僕 パンク・ロックが好きだ》《友達ができた 話し合えるやつ/何から話そう 僕のすきなもの/僕 パンク・ロックが好きだ》(THE BLUE HEARTS「パンク・ロック」)。
これが、パンクがアンダーグラウンドを脱してポピュラリティーを獲得した瞬間だったように思う。
日本において現在までパンクが隆盛を誇るきっかけ、その決定的転換点は、これはもうHi-STANDARDであることは疑う余地がなかろう。もはや、その説明をする必要もない気すらするが、ザっと振り返ると──。音源は自分たちのレーベルと言っていい“PIZZA OF DEATH RECORDS”で制作というインディーズでの立ち位置を貫き続け、タイアップはおろかプロモーションですらほとんどない状態にも関わらず、アルバムは50万枚以上のセールスを記録。『ANGRY FIST』をチャート4位に叩き込み、『MAKING THE ROAD』はついに100万枚を超すという大金字塔を打ち立てた。作品のセールスだけではない。バンド主催の野外フェス『AIR JAM』。この企画を実現させたことも相当に大きい。今はさまざまなバンド、アーティストが独自に主催フェスを行なっているが、その先駆けであって、『AIR JAM』がなかったら現在のフェスのスタイルは変わっていたことも間違いなかろう。
自主レーベルでの音源制作とその運営、そしてバンド主催の野外フェスの開催という、Hi-STANDARDが取り組んだものは、それがある種、ロックバンドのひな型となって彼らのフォロワーたちに受け継がれ、シーンの隆盛につながった。ひと口に語るのも憚られるが、そういうことだと思う。ただ、そのひな型も決してHi-STANDARDだけで成立するものではなかった。レーベルは同じメンタリティーを持ったアーティストたちがそこに集まることで活性化する。あるアーティストだけがそこにいて、それがブレイクしたとしても、それによってシーンが形成された…とはならないだろう。フェスに至っては言わずもがなで、ひとつのアーティストで行なうようなフェスもあるにはあるが、正直言って、単体のライヴの域は出ないように思うし、これもまた多くのアーティスト、バンドたちが集って成立するものであり、それが盛況となることでムーブメントが作られると思う。
その意味で、Hi-STANDARD出現以後、PIZZA OF DEATH RECORDSならびに『AIR JAM』に関わったバンドたちは、多様化しながらも今日まで続くパンクシーンの歴史の中でHi-STANDARDと並んで重要な存在であると言える。PIZZA OF DEATH RECORDSから1stアルバムを発表し(しかも、プロデュースはHi-STANDARDの横山 健!)、『AIR JAM』の第一弾であった『AIR JAM '97』に出演しているHUSKING BEEは、シーンの担い手のひとつであったと断言していい。HUSKING BEEもまた、もし彼らがいなかったとしたら、その後のシーンの姿は明らかに変わっていたと存在と言えるはずだ。説明が大分長くなってしまったが、それは彼らがパイオニアであり、レジェンドであることを感じとってほしい故のことだとご理解いただきたい。