筋肉少女帯
- Key Person 第28回 -
パロディーをやるつもりが
王道になっちゃった
しかし、その後は1988年にミニアルバム『仏陀L』でメジャーデビューし、1990年2月には単独で日本武道館公演を行なったりと、かなり目まぐるしい数年間を過ごしたのではないかと。
大槻
今考えるとあっと言う間なんだよね。すごいんですよ(笑)。まだデビューした時は学生気分で、プロでやっていくなんていう意識が全然なかったです。だって、武道館をやった時もなかったよね?
内田
うん。調子に乗ってふざけていたら、“あれ? やべぇな”って感じだった。
大槻
プロ意識は全然芽生えなかったし…今もないというか(笑)。
大槻
僕個人の場合はそこでタレントのお仕事も始めて、それはかっちりとしていたんですよ。“遅刻はしちゃいけないんだな”とか、“迂闊なことは言ってはいけないんだ”ということを、ちょっと知るようになりました。でも、ロックでプロ意識を持つことはあんまりなかったな。
夢に見ていたことが叶ったのではなく、バンドが話題になることで予想外の展開が続いていったわけですが、おふたりは“そんなつもりではないので辞めます!”という気持ちになることはなかったのですか?
内田
将来のことを堅実に考えることができない人間だったので、“まぁ、楽しいし、どうにかなるだろう”と今だに悪ふざけを続けています。
大槻
もう“動き出したジェットコースターは止まらない”という感じで、“辞めます!”なんて言う余裕はなかったな。
ミュージシャンとしてのプロ意識はなくとも、デビューをしたら仕事としてどんどん曲を作っていくことになりますが、その当時の曲作りに向かうモチベーションは何だったのでしょうか?
大槻
まだ自分らが本来どんな曲をやるバンドなのか分からなかったので、暗中模索でワクワクしていましたよ。
内田
“いついつまでに何曲作らなくちゃいけない”というのが苦手で苦労しましたけどね。今はそうでもないけど、自分がやりたいと思った時だったり、“おもしれー”と思えた時にしか曲ができないのは、本当プロ意識がないよね(笑)。
しかし、結成40周年記念CD+DVD「いくぢなし(ナゴムver. サイズ)」(2022年11月発表)で30年以上前の楽曲をリメイクし、若い頃の自分たちとコラボをするという発想は、若い頃と今の筋肉少女帯が違うものだからこそできることだと思います。どんなところが違うと思いますか?
大槻
もう30年以上経ったら別人。地平がつながっていると思えないよね。だから、今振り返ってみると、“こんな人たちがいたんだ!?”って新鮮に感じます。
私は学生の頃にネットで「釈迦」「日本印度化計画」を聴いて筋肉少女帯を知ったので、奇抜なイメージが強かったのですが、大人になってアルバム『ザ・シサ』を聴いた時には音楽的にも“人が変わったように違う!”と衝撃でした。
大槻
ネットっていうのは過去のものが一気に観られるから驚きますよね。僕以外のメンバーは音楽的にちゃんとしていったというか、ミュージシャンになっていく過程を僕は側で見ていたので、そこがやっぱり面白いな。
内田
子供の頃はスタジアムロックみたいなものって“カッコ良いけど、おかしいね”というのがあったんですよ。Queenのフレディ・マーキュリーが象徴していますけど、笑っちゃうじゃないですか。そういう王道のロックを笑っちゃうような、バカにしたものをやろうっていう感覚があって、僕らはパロディーをやろうとしていたのに、今では王道になっちゃったという。
大槻
ポストロックだったはずが、ロックとして見られるようになったよね。ある意味でパロディーみたいな、王道を俯瞰で見て面白がるようなことをやっていたんだけど、意外にお客様はロックショーとしてストレートに楽しんでくださる人が多くて、“そうなのか!? 我々がパロディーでやっていたようなものを普通に求めているんだな”と、お客さんに合わせていわゆるロックバンドを演ずるように変化していったというのはありますね。