J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第28回目は“今もプロ意識はない”と言いながらも、結成40周年を迎えた
筋肉少女帯が登場。結成時からのオリジナルメンバーである大槻ケンヂ(Vo)と内田雄一郎(Ba)が、デビュー時の心境やバンドにとってのキーパーソンを語る。
大槻
最初はふたりで漫画を描いていたんですよね。でも、当時は今みたいにSNSがなかったので、ノートに書くだけで誰も読んでくれなかったから、“聴いてもらえるバンドのほうがいいんじゃないか?”って話になったんじゃなかったっけ?
内田
漫画も描いていたし、うちでお誕生日会をやっていたような子供の時代の話なので、そんな感じで何人かでふざけていたら、バンドが始まったという感覚ですね。誰も楽器はできないけど、“何か面白いことをやろうよ”と始まっていきました。で、高校に入ってからはオーケン(大槻の愛称)とふたりで“もうちょっと本格的にやってみようよ”ってことで、“筋肉少女帯”という名前が出てきたわけです。
大槻
ちょうど少年隊が出てきた頃だったんですよ。“少年隊”というネーミングは強烈で、インパクトのある言葉だったんですよね。それと、“筋肉”っていうのは…何て言ったらいいのかな?(笑) 80年代サブカルチャーみたいな、デザイン、アートワーク、言語の中で不思議な名前をということで、ロック的じゃない言葉をつなぎ合わせて目立ちたかったんですよね。で、言葉尻だけをとってロック的じゃない言葉を探したら、“筋肉少女帯”に行き着いたと。
内田
それがケラさん(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)のやっていた伝染病というバンドの解散ライヴであり、有頂天のデビューライヴという。
大槻
そこに出してもらったので、有頂天とデビューが一緒でした。高校2年になる春休みだったかな? その時は僕がベースヴォーカルでね。
内田
僕はキーボードとサイドギターを弾いていて、2回目からはベースになりましたね。
大槻
高揚感がありましたね。あと、意外にウケたよね? “変な奴らが出てきた!?”って。楽しかったですよ。
大槻
もちろん! プロになるなんて思わなかったよね。渋谷の屋根裏っていうライヴハウスに出ることと、YAMAHAのロックコンテストの関東甲信越大会に出られれば、筋肉少女帯はバンドとしてアガりだと思っていましたから(笑)。そうしたら、ケラさんの紹介で決まった次のライヴが屋根裏だったんだよな。