「劇団 天白月夜」公演を控える天野
天街(少年王者舘)が、コロナ禍の中
で考えたこと。「よくわからないもど
かしさに、ずっとイライラしている日
々でした」

新型コロナウイルスの蔓延により、2020年の予定がすべて白紙になった演劇関係者は少なくない。名古屋の劇団「少年王者舘」を主宰する劇作家・演出家の天野天街もまた、劇団本公演を始め、予定されていた7本の舞台がすべて中止・延期となった。現在は、数ヶ月前に上演台本・演出を依頼された、名古屋の劇団「劇団 天白月夜」の『相思~或るDEATH DANCE~』の稽古に取り組んでいる所だ。「ソーシャル・ディスタンス」をもじったタイトル通り、コロナがはびこる現在の気配が映し出された作品になるという。
天野といえば、宇宙とか量子論とか、浮世離れした視点からこの世界を描くという印象が強い作家だ。しかし名古屋の芸術批評誌「REAR(リア)」の次号(9月下旬発売予定)に、自称愛国者たちや、演劇に対する行政の現状などについて、天野らしい言葉遊びを交えながらも率直に批判した文章を寄稿するという、意外な動きも見せている。非常事態宣言中に還暦(!)を迎えた天野に、次回公演の内容に加えて、このコロナ禍で改めて感じた、同調圧力がはびこる現代日本への違和感と、それを密かに反映してきたこれまでの創作について、じっくりと語ってもらった。

■ベースがあり、凝り過ぎる必要がなければ早く書ける。
──天白月夜の演出は、かなり急に決まった話だったそうですね。
5月にやる予定だった(天白月夜の)公演が、コロナの影響で9月に延期になったという時に、(劇団をサポートする)川村ミチルさんから「天野さんなら、この状態を逆手に取っていろんなことができるんじゃないか?」ということで、声を掛けられました。僕もちょうど、その時期の予定が全部空きましたから。ただ「一から脚本を書くのは避けたい」とはお願いしました。
劇団 天白月夜『相思~或るDEATH DANCE~』公演チラシ。 [デザイン]アマノテンガイ
──その脚本は川村さんが担当されてますが、出演者の一人の橋本恒司さんが原案にクレジットされています。
まず天白月夜の人たちに、作品コンセプトをそれぞれ提出してもらって、劇団内オーディションみたいなことをしたんです。その中で、彼が出してきたお通夜の話が、一番合うんじゃないかと。まず洒落みたいなタイトルをでっち上げて、橋本君に一本書いてもらって、川村さんが書き直す。で、僕がそれをさらに書き換えるというやり方です。
──ある男性のお通夜の様子と、その男性の少年時代の話を、時間と空間をねじれさせながら見せていくという、天野ワールドの常套という印象の作品です。物語の構造は、最初からそういう感じだったのですか?
橋本君の原案は、父のお通夜にその子どもたちと若い後妻が集まって、さらに愛人らしき人がやってくるという内容で、川村さんが父の子ども時代の話などを加筆しました。僕はそれを一行ずつ、自分が面白いと思えるように書き換えただけで、構成は元の脚本と一緒。僕が書き換えたものに、だんだん向こう(原作)が侵食されて、有機的に結合して別の所に行く……ということは起こってるけど、設定ごと全部変えるというやり方はしていないです。
──マジックのシーンが結構ありますよね。
太田ひろしさんという、本物の手品師の人が今回出るので。演技は苦手らしいんですけど、当然「おー!」と思う手品をされるので、それは見どころになると思います。
「劇団 天白月夜」に出演する、マジシャンの太田ひろし(左)。
──そしてこれが重要ですが、本番直前まで追い詰められないと書けないと言われる天野さんが、公演の一ヶ月以上前に脚本を完成させています。
顔合わせの稽古で、みんなにテストパターンの脚本を読んでもらった時に、これはいつものように(稽古と)同時進行で書いたら、絶対本番に間に合わんと思ったんです。たとえば、ほとんどの人が芝居特有の語尾が上がるしゃべり方になっていたから、この駆除だけでも時間がかかるだろうと思って、10日ぐらいの休みの間に完成させました。僕は何かとっかかりとか、ベースがあると早いんですよ。
──確かに遅筆の理由として「一から考えると、どこから始めるかとか何を選べばいいのかとか、ずっと迷ってしまうから」と話してましたね。
台本の形になっていなくても、登場するキャラクターや関係性や役者が決まっていたり、使える材料が限られていたり、あらかじめ強い「縛り」があったりする場合は早く書ける。「あれもこれも何でもできる」ってなると、どうしても凝りたくなって時間がかかってしまうんです。当たり前か。だから「雨傘屋」(注:熊本県の演劇ユニット。天野の演出作品をほぼ年一回上演)でやる時と、今回はすごく近いかな。
──川村さんの「この状態を逆手に取って、いろんなことができるのでは」という要望には、どう応えようと思っていますか?
脚本の段階で、マスクをする必然性を入れるとか、そういう演出をしやすい伏線は張ってます。でも具体的にどうするかというのは、立ち稽古が本格化してから。いろんな制限を逆手に取るというより、わかりやすく利用できる方法を考えたいです。
ソーシャル・ディスタンスを保った「劇団 天白月夜」稽古の様子。

■差別や同調圧力は「嫌なものは嫌」としか言えない。
──この公演の声がかかる前の、非常事態宣言の頃は、どのように過ごされてましたか?
流山児(祥)さんに短編を書いた(注:映画『ジャパンデミック★13人のイカれる作家』。近日公開予定)以外は、ほとんど何もしなかったです。自分から「何かしよう」とは、一つも思わなかったし、インターネットとかもしてないから、ZOOM呑みだっけ? ああいうのもやってない。だから暇と言えば暇だけど、何かずっとイライラしていました。
イライラというか、よくわからないもどかしさ。テレビを見ても「みんなでつながろう」とか「絆がどうの」みたいな、僕が一番嫌いな同調圧力や、あるいは自粛ナントカみたいな話でいっぱいだし。そのやりきれん嫌さが、すごく自分の中にあるという感じが、今も続いています。
──その自粛期間中に「REAR」に書かれたエッセイをひと足早く読ませてもらったのですが、そのもどかしさを率直にぶちまけた内容で「天野天街がこんな文章を書くんだ」と、その内容に共感しつつも驚嘆しました。
僕は政治的な話題が苦手だと思われてるけど、そういう話をちゃんといっぱいしたいなあ……という気持ちが高まってた、というのがあります。でも愛国者とか自粛警察みたいなものに、そのイライラをぶつけたというよりも、ああいうのは「くだらん」と思いながら書きました。
僕は単純に同調圧力が嫌いだし、差別もナショナリズムも嫌い。でもその深い根拠とか、そういう考えに至ったルーツみたいなことは置いといて、とにかく皮膚感覚で「嫌なものは嫌」としか言えない。自分に向き合って……もし「自分」というものがあるならば、という前提ですが。その方向に考えを研ぎ澄ませていくと、理由みたいなものが出てくるかもしれないけど、そんなのはどっちだっていいと思ってます。
少年王者舘『1001』(2019年)。 [撮影]宮川舞子
──理屈ではなく、本能としかいえない嫌悪感……たとえば「ピーマンがどうしても嫌」みたいな感覚なんですかね?
と、いう風に断定されるのも嫌い(笑)。決めつけじゃなくて「……かもね」という感じがいいです。量子論がいいのは「かもね」(の世界)だから。なので、その質問にちゃんと答えるなら「そうではないな、でもそうかもね」かもね。実際はさっきも食ってきたぐらい、ピーマンは好きですが。よく少年王者舘には「お子様○○隊」という集団が登場するんだけど、あれは自分の苦手な考え方や行動様式をそこに集約して、アホらしい存在として遊ばせるために出してるんです。
──確かにあのお子様たちは、偏見に凝り固まっていて、すぐ物事を決めつけて話をややこしくする存在ですよね。ずっとコメディリリーフと思ってたんですが、そういう意図が込められていたとは知りませんでした。
そんな高尚なものじゃないけど、あれは完全に同調圧力の被害者。関東大震災の時に、朝鮮人を虐殺した人たちって、明らかに加害者だけど、同時に被害者でもある。だからあれは、とても怖い存在なんです。「自分が正義だ」という形を取るものに対しての不快感は、昔からずうっと持っていたし、時どきそういう形で出てきたりする。
──その正義感と偏見が絡んだ結果生まれる、同調圧力みたいなことがずっとダメだと。
その構造が、本当に気持ち悪くてたまらない。差別がどうこうという、もっと前の段階……俺スポーツ観戦が苦手なんだけど、ゲームそのものじゃなくて、熱狂がどうしてもダメ。別に博愛主義でも、平等主義でもない。勝ち負けが面白いのって当たり前だし、どこかのチームを贔屓にすることを誹謗するつもりもないんです。でもその中で、集団と集団が戦う時の熱狂……特に民族とか国家がフッと臭ってくると、それが良い悪いじゃなくて、どうしても嫌になるというだけで。
その嫌悪感には全然根拠がないし、浅い深いで言ったら、本当に浅い感覚の話でしかないんですよ。だからさっきの「ピーマンが嫌い」っていうのは、実は正しいかもね(笑)。でも「ピーマンが好き」というのも同時にないと、この話はできないです。茫漠とした「好き」よりも「嫌い」の方が話しやすいし、議論のとっかかりになりやすい。そこで何かを伝えようとした時に、一つの方向性がないと矛盾するということもあるだろうけど、好き/嫌いが融合していたり、パラレルに存在していたりという状態もあるはず。同時にある、どっちもあるけどどっちもない。僕はそういう風な方に興味がある、という話です。
「劇団 天白月夜」演出中の天野天街(左)。
──もう一つREARのエッセイでは、名古屋市長に対する批判がかなり痛烈でしたね。
実際にイチャモンつけたのは「ある痴呆都市の屎(し)長」の「カワムラ某」ですけど(笑)。でもまだ全然言い方が足らんかったなあと今は反省しています。昨年の「表現の不自由展」の件以来、本当に嫌で嫌でしょうがない。
──その「表現の不自由展」について、天野さんも何かコメントはしていたんですか?
新聞社に取材されたけど、結局掲載されなかったです。「展示を持続させるためにはどうしたらいいか?」と聞かれて、表現の自由とかの方向ではなく、具体的なアイディアを話しました。問題の展示物を会場から撤収するんじゃなくて、そのまま封印すればいいんじゃないか? とか。「こういう意見や問題があったから、この展示は観られません」という説明書きや、音声でインフォメーションを流しながら、作品の前にバリケードを張って、観ることができないようにするんです。入口に「現実」や「現状」という「結界」を作る。
──それって「観てはいけないと言われたけど、それが何か気になるから覗きたい」という『鶴の恩返し』的な気分をあおられますよね。
封印することで、またもう一つの「ゲージツ」のようなものが、姿を現しかけたりして。赤瀬川原平の「トマソン」みたいに「そういう意図はなかったけど、芸術になっちゃった」というのは大好きだけど、この場合は意図が見え見えで、あざとさが一杯かもね。でも、とにかく何にせよ「ゲージツ」のナニカに近接する可能性とか機会があったのに、あの人たちはみすみす逃してしまったなあ……というようなことを、当時話しました。
天野天街。

■時間があるからずっと凝ることができる、永遠のアマチュア。
──ここまで「嫌い」の話ばかりしてますが、天野さんの言い方を借りると量子論的な……「かもしれない」「どっちだっていい」という感覚は、好ましいんですよね。
差異とか段差というものはあるに決まってるし、ないとつまんない。でもその差異の間を激しく往還して、それが一瞬止まったような瞬間がキレイだったり、面白かったり、素晴らしかったり、って思うわけです。絶えず往還してる。どちらも同時にある。つまり「結果がない」というのが大好きだっていうこと。どっちが強いか、どっちが正しいかなどの差異に対して「どっちだろう?」というブレを繰り返した上で「どっちだって一緒だ!」という感覚が持てるか……持てはしなくても、そういうことがしたいと思えるだけでもいい。終始ブレているものは、ブレていないのと一緒。
──差別や決めつけなどとは対極の考え方だと、改めて思います。
波田陽区の「○○切り!」みたいに、何かについてバサッと切るみたいなことは、やってる側はわかりやすく気持ちいいだろうけど、その「わかりやすい」の界隈に、えげつない快感があるわけで。便利だから使わせてもらうけど「ピーマンが嫌い」と同じ感覚で、決めつけることが訳もなく嫌いだし、それと隣接する差別も嫌い。ピーマンが途中で好きになる場合もあるだろうけど、差別とかに関しては無理だと思います。
──差別といえば、初期の少年王者舘には、在日差別や部落差別を匂わせる設定やキーワードが多かったことを思い出しました。
自分がずっと「嫌だ」と思っているものを織り込んでいるわけだけど、それがわかりやすく反映はされてない。自分の考えのようなものを、ナマで表現するのが恥ずかしくてしょうがないんです。それを全部、恥ずかしくない形でやろうとするから、いつまでもアレコレ逡巡(しゅんじゅん)して、書けなくなるわけで。結局「凝る」というのが、一番の問題なんです。凝るっていうのは迷彩するとか、恥ずかしさを糊塗(こと)するようなことでもある。そんなのを、オタク的に細かくやっちゃうわけだから、全然スッキリ観られないし、結果として一般化するようなものにはならない。
少年王者舘『マバタキノ棺(再演)』(1991年)。 [撮影]羽鳥直志
──とはいえ、その「凝り」を偏執狂的なほど塗り重ねた結果が、あの独自の世界を生んだとも言えるわけですから。
かもね。凝ることがずっとできる環境にあったからこそ、こういう変な、ゆがんだ演劇の人が生まれたんだと。お金がなくて時間だけがある人は、凝りたくなるんです。もしやろうと思ったら、それなりに上手く早く書くこともできるかもしれないけど、自分が納得する物は作れないかもしれませんね。俺は永遠のアマチュアだと思います。
──もしかして天野さんが一つの舞台の中で、演技もダンスも映像も、悲劇も喜劇も、あらゆることを有機的かつ等価で扱おうとするのも、やっぱりそれらを差別したくないという気持ちから生まれてるんでしょうか?
それはまったく違う話で、単に「全部ある」っていう状態が好きなだけです。「全部ある」って「全部ない」と同じだから。何でもアリと同時に、何にもないがしたい。どっちもアリでどっちもなし。たとえば演技と映像という、明らかに違うものを融合させる。溶かして一つにしてゼロにする。「全部あり」と「全部なし」を溶け合わせる。そんなことできないかもしれないけど、したいっていうだけ。だからシュールリアリズムは大好きです。全然別のもの同士をくっつけて、にょろーんとさせるってことが好きなんです。夢のリアリズム。
──そういった従来のやり口に加えて、今回の舞台では先に話したような「得体のしれないもどかしさ」が、反映されていくわけですね。
反映されるでしょうね。そんなに大したことじゃないけど、体感してることだから自然に出てくるはず。意識無意識関係なく、何らかの影は差すだろうなと思っています。でも「こんな時だからこそ演劇をやらねば」みたいな、そういう強い思いみたいなものは一切ないんです。むしろ「やらねば」って押しつけられると、逆に「冬眠しよう」とか思いますね。天邪鬼だから(笑)。
天野天街。
取材・文=吉永美和子

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