第10回 真夏の夜のジャズフェス
冗談はさておき、そのていどの知識でも太平洋へ飛び立ってしまえばどうにかなるもの、そうタカをくくる。怖いもの知らずだった若者の特権は、しかし今回ばかりは効きめがよろしくない。いったいどうしたというのか……!?(後述)。
1999年、〈モントルー・ジャズ・フェスティヴァル〉を取材するため、パリ経由でチューリヒ行きの飛行機に乗った。ちょうどいまごろ、盛夏の候。レマン湖畔で有名な避暑地モントルーが、二週間ジャズにジャックされる。
世界三大ジャズフェスのひとつ。そのうちモントレー・ジャズ・フェスティヴァルというのもあるからまぎらわしい。モントレーは米カリフォルニア州の町。さらにまぎらわしいことに、カナダのモントリオールにも国際規模のジャズフェスがある。なお、〝ジャズ〟とは謳っているものの、ロックからポップス、ワールド、クラシックまでなんでもあり。フジロックにロック以外のアーティストが出演するのとおなじことになる。
会場はおおまかにホールと野外に分かれていて、一定のエリア内を自由に行き来しながら楽しむ。短い滞在期間のなか3、4ヶ所観るにとどまったが、市内に散在する野外ステージから激しく音が交差する様子は、月並みながら街全体が巨大スピーカーになったかんじだ。そこにエサを巣まではこぶアリのように、各人が感動の熱を抱えて街中を練り歩く。
陽が沈むころになるとメインホールの〈ストラヴィンスキー講堂〉が慌ただしくなる。ビッグネームがあいつぎ登場するからだ。となりの〈マイルス・デイヴィス・ホール〉はそれとくらべてふたまわりほど小さいけど、旬なミュージシャンによるショーケース的なプログラムが集中しているため客層も若め。取材目的だったカール・クレイグ率いるインナーゾーン・オーケストラ(モントルーとはべつの参考動画)もそのうちのひとつだった。
一般的にそうだとおもうが、わたしもモントルーのことはライヴ盤で知った。どこらへんが最初だったか忘れてしまったが、つよく意識させられたのはロイ・エアーズのその名も『Live At The Montreux Jazz Festival』(1972年)。世代によってはこれがビル・エヴァンスだったり松岡直也だったり、あるいはディープ・パープルにイエスだったりするのだろう。
ステージの模様を想い出しつつ、あらためてインナーゾーンの音源を耳に入れていく。すると、当時にして多くの示唆に富んでいたことに気づく。テクノとジャズの融合、ライヴ・エレクトロニクスの結晶といった当時の常套句では補えないような無辺の地平がそこから見えてきた。
モントルー出演のきっかけとなったアルバム『Programmed』がリリースされたのは、同年1999年のこと。21世紀まで秒読み段階にあって、地に足のついた演奏からは世間の喧騒とは対照的なまでの色がにじんで見える。「The Beginning Of The End」のようなメッセージ性に富むラップ・ナンバーに、一見浮いたように並ぶスタイリスティックスの古典カヴァー「People Make The World Go Round」。当時なりにその意図は見えていたものの、リリックともども、より深いところで共振する音の意味がいまならわかる。
旅の恥はかき捨てというけれど
いったいなにがあったか? すべての原因は帰りの飛行機にあった。度重なるゲートの変更に右往左往、乗りそこねてしまったのである。案内所に詰め寄り確認してもらうも、つれない返事にすっかり気落ちするーー「残念ね、日本への便はもうないのよ」。
それでも、1ミリでもここから離れたいとおもうのが人間の心理というもの。経由点のパリまで向かったが、ここでも問題が発生する。財布を入れておいた鞄を開けようとポケットに手を突っ込むも鍵が見当たらない。弱り目にたたり目、途方に暮れるなか、いちかばちか警備員に相談してみる。すると、ジッパーの頭のわずかなすき間をペンチでこじ開け一件落着。〝あれ、こんなんで開くの?〟ーーうれしいやら拍子抜けしたやら。しかし、これでは終わらず。成田行きは翌日にならないと運航しない。24時間、シャルル・ド・ゴール空港のロビーで寝泊まりするハメに。あの日ほど時計の針が重くかんじられたことはなかった。
第10回 真夏の夜のジャズフェスはミーティア(MEETIA)で公開された投稿です。
ミーティア
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