「きれい」の神髄に宿る”日本の美意
識”に開眼!『寛永の雅 江戸の宮廷
文化と遠州・仁清・探幽』レポート

『寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽』(会期:2018年2月14日〜4月8日)が、六本木・サントリー美術館にて開幕した。
江戸幕府が政権を確立し、戦乱の世が終わりを告げつつあった17世紀初頭。時を同じくして、文化面でも”新たな潮流”が生まれようとしていた。それこそが、1624〜1644年にかけて京都を中心に開花した「寛永文化」である。「きれい」という言葉に象徴される、洗練された造形を特徴とする寛永文化は、時の古典復興の気運と相まって、江戸の世に「雅(みやび)」な世界を出現させた。
近世初期の「雅」を担った宮廷文化と、それと軌を一にして生まれた新時代の美意識。本展では、そうした潮流が小堀遠州、野々村仁清、狩野探幽などの芸術に結実していく様子を存分に感じ取ることができる。
展覧会冒頭の白眉は、エントランスに美しく佇む《白釉円孔透鉢》だ。白濁釉が薄くかけられ、白一色の器全体に大小の円孔が無数に施された野々村仁清の作品は、斬新でありながらもシンプルで端正なかたちに、思わず目を奪われてしまう。仁清といえば色絵の大家として著名だが、時代の美を映し出す傑作との邂逅は、作家の新たな一面を知る手がかりを与えてくれるに違いない。
階級を超えた自由な交流によって花開いた、“寛永のサロン文化”
元和元年(1615年)に江戸幕府が政権を確立し、泰平の兆しが見え始めた頃、幕府は朝廷に対してさまざまな働きかけを強めるようになった。しかし、いつの世も新たな文化の勃興の影にはある種の制約があったように、寛永年間も例外なく、相応の恩恵があった。すなわち、朝廷は幕府から莫大な経済的援助を受けることで、京都に文化的環境を発展させる土台を築き上げたのである。
第1章では、こうした時代背景のもとに誕生した新たな文化の萌芽を、“寛永のサロン”をテーマに紐解いてゆく。
エントランスを美しく飾る、白釉円孔透鉢 野々村仁清 江戸時代 17世紀 MIHO MUSEUM
左:赤楽茶碗 銘 熟柿 本阿弥光悦 江戸時代 17世紀 サントリー美術館 右:黒楽四方茶碗 銘 山里 道入 江戸時代 17世紀 サントリー美術館
多くの文化人たちがサロンを形成し、公家、武家、町衆など階級を超えた交流が始まった当時、ときに意見を異にしながらも、さまざまな美的感性が自由闊達に、有機的に絡み合ったからこそ、独自の文化が熟成されていったという。本章では一つひとつの作品とじっくり対峙するごとに、寛永のサロンが育んだ、奥行きあるたしかな“美の結晶”を見出すことになるだろう。
和歌をたしなみ、あらゆる教養に精通していた文化の立役者
平安以来の王朝文化を復興させようと尽力したことで知られている、後水尾院。第2章では、寛永文化の中心的人物として活動した天皇・後水尾院の功績を讃えるとともに、宮廷文化のなかで育まれた「雅」のありように触れることができる。
左:後水尾天皇宸翰「敬」 後水尾天皇 江戸時代 17世紀 国立歴史民俗博物館 右:和歌懐紙「遠山如画図」 後水尾天皇 正保4年(1647) センチュリーミュージアム
とりわけ、1615年に幕府によって公布された「禁中並公家中諸法度」では、和歌が宮廷を象徴する芸能に位置づけられたことを受け、古典文学の研究を率先して敢行。和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の伝統の立て直しに努めた。また和歌だけでなく、書道、茶の湯、花道とあらゆる分野に精通していた後水尾院は、総合的な教養を体現する真の文化人として、寛永文化を牽引する立役者となった。
重要文化財 東福門院入内図屏風 江戸時代 17世紀 三井記念美術館
左:源氏物語絵巻 住吉具慶 五巻のうち第二巻 江戸時代 17世紀 MIHO MUSEUM 右:伊勢物語絵巻 住吉具慶 六巻のうち第一巻 江戸時代 17世紀 東京国立博物館
華やかでありながらも余白が多く、控えめで上品な印象の《源氏物語絵巻》は、やまと絵師・住吉具慶(すみよしぐけい)による作品だ。本展の担当学芸委員・柴橋大典氏は、「(本作に描かれた美意識は)和歌の世界にも通じている」と語る。
「和歌は心から発せられるもの。ありのままの素直な心を詠むもので、過度に技巧的であったり、強い自意識は好まれませんでした。“さらりと美しく、きれいであること”。これこそが為政者としての誇りであり、同時に心の鍛錬であるというのが、宮廷文化の美意識だったのです」
本章では、華美に走ることなく、あくまでも控えめで上品な宮廷文化の魅力が、作品のなかに昇華されている。
宮廷文化と双璧をなした、武家文化の美意識
第3章から第5章では、寛永年間に宮廷文化と双璧をなした武家文化の美意識がテーマ。文化の担い手だった三大巨匠の旺盛な活動を例に、“時代の美”を読みとく上で重要な手がかりとなる作品群の一端を紹介する。
筆頭に挙げられる人物が、寛永文化を代表する茶人であるとともに、多くの建築の造作をも指揮した江戸幕府の官僚、小堀遠州である。
手前:瀬戸筒茶碗 江戸時代 17世紀 個人蔵 奥:染付花唐草文茶碗 中国・明時代 17世紀 徳川美術館
遠州は、武家の教養として「大名茶」を目指した人物。また、藤原定家を仰ぎ、和歌をはじめとする宮廷文化の雅を茶の湯に導入したことは、遠州を語る上で外せない、重要な代名詞でもある。
さらに、遠州は宮廷文化のほかにも、東山文化的な唐物、桃山文化的な侘び、そして中国や朝鮮、ヨーロッパの作品に至るまで、新旧さまざまな道具を自らの美意識で選別し、新たな茶の湯の世界を切り拓いた。優美で均整のとれたそれらの茶道具は、のちに「きれい寂び」と評され、文化を形成していった。
左:銹絵山水図水指 野々村仁清 江戸時代 17世紀 東京国立博物館 右:白釉耳付水指 野々村仁清 江戸時代 17世紀 出光美術館
続いては、色絵の技法を大成した名工・野々村仁清の簡素な作品群に注目したい。こちらでは、仁清が御室仁和寺に開窯するにあたって指導を行った茶人・金森宗和(かなもり そうわ)の影響が見て取れる。
左:信楽写尺八花入 野々村仁清 江戸時代 17世紀 個人蔵 右:流釉花枝文平鉢 野々村仁清 江戸時代 17世紀 サントリー美術館
仁清の初期作品は、落ち着いた色調をそこはかとなく漂わせる技が際立っている。仁清の卓越した才能のほとばしりを、ここでじっくりと堪能したい。
後水尾院にも称賛された、狩野探幽の様式美
そして結びでは、幕府の御用絵師だった狩野探幽の作品を目の当たりにできる。豪壮な桃山様式に代わり、ゆったりとした大きな余白と墨の濃淡がたゆたうように表される画風が、心に静かな波紋を投げかける。なんとも味わい深い簡素な趣は、狩野派の画風を一変させた巨匠の美意識を、画のなかにさりげなく漂わせている。
富士山図 狩野探幽 寛文7年(1667) 静岡県立美術館
桐鳳凰図屏風 狩野探幽 江戸時代 17世紀 サントリー美術館
豪壮や華麗を極めた桃山、慶長のかぶきとも異なり、すっきりと洗練された美のありようが「きれい」という言葉に象徴されていた寛永文化。一切の無駄が削ぎ落とされるからこそ、美の神髄がいっそう引き立つ。奥ゆかしく控えめで、匂い立つように立ちのぼる“日本の美しさ”。そんなそこはかとなく漂う寛永の美の記憶を、糸をたぐり寄せるようにして、今この時代に蘇らせてみたい。

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