角野隼斗×フランチェスコ・トリスタ
ーノ、ジャズの聖地・ブルーノート東
京に登場!~楽屋裏トークを交え “
Unstoppable” な公演を振り返る~

ブルーノート東京——このジャズの聖地に角野隼斗が出演するのは3度目となる。今回は、あのフランチェスコ・トリスターノとの共演だ。
トリスターノといえば、2001年にJ.S.バッハの『ゴルトベルク変奏曲』でCDデビューし、王道的なクラシック・ピアニストとして飛躍していくかと思いきや、彼の研ぎ澄まされた感性・知性はその枠には収まりきらなかった。古楽からテクノまでジャンル横断的に演奏し、DJとしての顔も持つ。エレクトロニクスを取り入れた自作品を積極的に手がけ、カッティングエッジな取り組みでいつも周囲を驚かせてきた。
フランチェスコ・トリスターノ
トリスターノの尖った活動や、伝統と創造性と掛け合わせたJ.S.バッハ演奏は、どこかグレン・グールド(1932〜1982)の姿と重なって見える。電子メディアや録音技術の可能性に着目し、自身の演奏活動を録音だけに集中させた伝説的なピアニストだ。そんなグールドの演奏表現を再現するAIシステムが開発された際、トリスターノはデータのインプットに大いに貢献し、披露演奏会『Dear Glenn』ではAIのグールドと二重奏を披露している(2019年、オーストリア)。
東大の大学院でAIの研究を専門としていた角野隼斗が、そんな先進的な活動を続けるトリスターノの演奏を実際耳にしたのは3年前の来日公演だった。その時の感銘をSNSに投稿したところ、本人との交流が始まった。リアルに初対面したのは昨年10月。角野がヨーロッパ訪問中のことだった。それからわずか1年ほどで、今回のブルーノート公演が実現することになった。
角野隼斗
筆者は11月15日の本番に先立ち、彼らがリハーサルを行う都内某所のスタジオを訪問し、それぞれに抱く互いへのリスペクトや音楽性について話を伺っていた。本稿では、その時の彼らの言葉を交えながら、ブルーノート東京での2ndステージの模様をレポートしよう。
筆者にとっては初ブルーノート。日頃コンサートホールでクラシックを聴いている人間にとって、洒落た入り口から地下へと続く階段を降りていくだけでも、やや緊張する。だが、会場内に入ると、料理のいい香りと、各テーブルに揺れるキャンドルの明かりに優しく包まれ、すぐにリラックスできた。
この日はなんと、スペシャル・カクテルがあるという。角野隼斗をイメージして作られたというではないか。やや言い訳じみているが、「これもお仕事!」と割り切って、お酒をいただくことにした。なんとも爽やかなレモン色のカクテルが運ばれてきた。イメージにぴったりだ!「ハ」ヤト・「スミ」ノから連想して八角を使っているという。とても飲みやすい優しいお味。さりげなく酔いしれてしまうこの感じ、まさに角野の音楽そのものだ……
スペシャルカクテル(撮影=飯田有抄)
などと浸っているうちに、客席が暗くなり、いよいよ角野とトリスターノが登場。近い! ブルーノートのステージ、近い! 筆者は上手側(ってこういう場所でも言う?)の後方テーブル席であったか、それでも二人が「そこにいる」感が十分にあった。ワクワクする。
冒頭はジョー・ザヴィヌルの代表作「バードランド」。フレンドリーでノリのいいナンバーで幕を開け、さっそく客席からも手拍子が響く。角野も笑顔で応えていた。
「トリスターノはクラシック、エレクトロニクス、ジャズなど垣根なく活動しているところが素晴らしい。1年越しで今夜のライブを実現することができました」
そうした角野のあいさつに続いて、2曲目のJ.S.バッハへ。
やや意外であるが、二人が選んだのは原曲がオルガンのための作品であった。《パストラーレ》ヘ長調BWV590だ。弱音の序奏で幻想的に世界が広がる。じわじわと音楽の輪郭が姿を現し、角野とトリスターノのバッハが展開していった。二人のみずみずしいクリエイティヴィティと、ドイツ音楽の土壌とが目の前で掛け合わされてゆく。角野はつぶやくような音色で即興的にメロディーを紡ぎ出す。高音域のハーモニーも実に繊細だ。トリスターノはクラシカルなタッチで主旋律を浮き立たせ、安定感のあるパルスを感じさせる。互いの音を聴き合い、尊重し、対話することで、立体的で理想的なポリフォニーの音場が生まれた。そうなると、ごく自然にオルガンのようなサウンドになるのだった。
どこまでが楽譜通りで、どこからが二人のオリジナルなのか、そして即興なのか、もはやよくわからない。わからなくなっていいのだと思う。音楽がごく自然に、その場に生成されていくことに立ち会えることが尊い。

本番に先立つリハーサルにおいて、この曲のセッションについて、角野は次のように語っていた。
「楽譜から離れることは、楽譜を深く理解しているからこそできる。それを今回、僕はトリスターノとの演奏を通じて改めて感じました。二人でバッハのアレンジを弾きますが、イントロに幻想的なインプロを加えたり、ハーモニーを変えたりもします。楽譜通りに弾かないところをどうするか決めるのは、バッハの音楽がネイティヴ言語のように習得しているという確固たる感覚がないとできない。ぼくはまだ不安もあるけれど、トリスターノはその豊かな経験から、その感覚を持っている。実際二人で弾いてみると、バッハ的なサウンドに一層近づけたりするので、とても刺激的です」
トリスターノもまた、角野との演奏には特別なものを感じているようだ。
「初めて会った時、一緒に弾きはじめて5分も立たないうちに、僕らは問題なくタイミングが合った。だれとでも合うわけじゃない。僕らはリズム語法で通じ合えるものがあると感じた。一方で、ハーモニーはお互いに違う感覚をもっているんだ。そこで音楽的な対立や摩擦が起こるのは、実はとても重要。違いやコントラストがないと面白くないからね。僕の弾くハーモニーに対して、かてぃんは思いもよらない響きで反応する。『そうくるか!』と僕がまた応えると、彼はまたスピーディーに面白く返してくれる。そうやって、僕らはリハーサルでありとあらゆる可能性を試し、広げている。毎回変わるんだ。本番では二人ともまだ経験していない領域にいくと思う」
その言葉通り、早くも2曲目のバッハで、二人はこの夜にしか生まれ得なかった、新しい境地の音楽を聴かせてくれたのだった。
続いてはトリスターノの作品「Ciacona seconda」へ。筆者の席はトリスターノは背中側から見える場所だったので、彼が実際に何をしていたのか視覚的には捉えきれなかったが、ピアノのボディや、おそらく内部の鉄骨なども打っていただろうか。ベースの音型がループしていく中で、バロック調、そしてジャズ調のメロディーが自由に羽ばたいてゆく。この日、角野はスタインウェイ、トリスターノはヤマハのピアノを使っていたが、視覚的に確認しなければ、どちらがどのパートを担当しているのかわからないほど、二人は音色を接近させ、それでいながら各声部を気持ちよく分離させていた。
それぞれのソロも演奏された。角野が弾いたのは、ラヴェルの「水の戯れ」だ。これにはちょっと興奮した。というのも、角野のコンサートでこれまで聴いたクラシックはリストやショパンがほとんどだったたからだ。また、このタイミングでクラシックの原曲演奏というのも嬉しい。とはいえ、やはり瑞々しい即興の精神は宿った《水の戯れ》だ。やや自由な緩急と、大胆なダイナミクスに彩られてゆく。豊かに波うち、生き生きとたゆたう音楽からは、はからずも「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉を思い出した。そう、水は一度たりとも同じようには流れないのだ。
おそらくは、ここがコンサートホールなら、きっと角野は違う演奏をするはずだ。もう少し穏やかに流麗に、より“正統的”に弾くのではないか。しかしここ、ジャズの聖地ブルーノートで感じられるオーラ、距離の近い客席からの熱気、トリスターノの視線の中で、「いま、ここ」を流れる水に角野が与えた形は実にエッジィで、それがとても自然に響いた。この作品の新しい一面を見た。
トリスターノは語っていた。「人生とはジャズだ。人生とは即興だ。ぼくらはいろんなことを計画しながら生きているけれど、大体はうまくいかない。だから次々に新しいプランを作る。即興して前に進んでいくしかないのだから」と。
この日の演奏の中で、クラシックの原曲のままであるからこそ、ある意味逆説的に、そうした「即興的推進力」をもっとも強く感じられたのは、角野の弾く「水の戯れ」だったかもしれない。
続くトリスターノのソロがまた心にくい。旋法的なルネサンス期の音楽である。O.ギボンズの「Pavan」を、まるで吟遊詩人のようにしっとりと奏でたのだった。トリスターノはバロック以前の音楽への愛情も深く、今年は『On Early Music』というアルバムを発表し、自身のオリジナル作品とルネサンス期の鍵盤作品とを組み合わせている(「Pavan」も本アルバムに収録)。そこからトリスターノの自作品「Ritornello」へ。同音連打が再び幻想的な世界へといざなってくれた。リズムの正確な刻みと、幅広い音域のサウンドが心地よい。
再び二人のデュオへ。話しかけるようにタンゴの音楽が始まる。トリスターノの「Cubana」だ。ここでトリスターノは、ダンパーペダルを外す時に出るある種のノイズ音を活用したり、足踏みでリズムをクールに刻む。角野は官能的にメロディーを紡ぎだす。トリスターノに視線を送り、ややテンポを上げながら「もっと行こう!」と盛り上げてゆく。そして「Foxtrot」では、角野が安定した刻みを効かせ、トリスターノは身体をしなやかに使いながら歌う。時おりガーシュウィンの”I’ ve got rhythm”のワンフレーズや、民謡的なメロディーが飛び出したのも面白い。
ここまでを弾き終えて「あつい…… (トリスターノに視線をおくりながら)かっこいいっすね……」と角野のMCが入る。そして最後の曲目がラヴェルの「ボレロ」であることを告げた。「おお……」と客席からも声があがる。
「ボレロ」といえば、オーケストラ作品の傑作であり、ある種の問題作といっても差しつかえない。主なメロディーはたったの2種類。およそ15分間の間にその2種類のメロディーがフルート→クラリネット→ファゴット……と多様な楽器間で受け継がれ、カラフルに音が重ねられ、じわじわとボリュームを上げていく。スネアドラムがボレロ特有のリズムを169回休むことなく繰り返し、次第に聴く者を恍惚とさせる。「オーケストラの魔術師」と囁かれたラヴェルの、色彩感溢れる音色変化が肝となる作品であるから、これを2台のピアノだけという、楽器固有の音色が限られた条件で聴かせるには過酷な作品だ。アレンジはもとより、奏者の出せるタッチのヴァリエーションも多いに要求される。
角野の「できる限りの弱音から始めます」という言葉に続いて演奏がスタートした。
冒頭から、タンタタタ タンタタタ タッタッ、タンタタタ タンタタタ タタタタタタというリズムを担当したのは、トリスターノの右手。彼はこのあと、およそ15分、ずっとこのリズムを刻み続けることになる! 右手で鍵盤を打ち、左手で弦に直接触れながらミュートをかける。倍音が響いて高音域のサウンドが不思議な音空間を生み出した。
角野がメロディーを歌い始める。時折重ねる高音域の重音が、やはり倍音を感じさせる。きわめて少しずつ、じわじわと、スムーズに厚みを持たせていく。クレッシェンドしてゆく音の増やし方は見事で、どこまでもエレガント。徐々に強音となっても、けっして音割れのしない豊かな響きが広がっていった! 終盤の音楽はグランディオーソ。荘厳な音の建築物が立ち現れるかのようだった。厚みのある和音で迫力を増しながら、これ以上ないほどの最強音に達して終わった!会場からは割れんばかりの喝采が起こった。
鳴り止まない拍手のなか、アンコールに応えた二人。最後は角野のオリジナル作品。「大猫のワルツ」。これもまたスペシャルなバージョンで、なんと4拍子!もはやワルツじゃない。ボサノヴァ? いや、サンバである(笑)。だが、この曲のエッセンスは健在。そう、誰もが明るく、幸せになれる音楽なのだ。
ここまで、実にクールでかっこいい、トリスターノとのデュオに魅せられ、圧倒され続けてきたが、角野隼斗の音楽はどこか根底に「幸福感」があることを、ここで不意に思い出させられた。彼は芸術家でありエンターテイナーである。人の心に、明るく朗らかでピュアな喜びをもたらすことのできる存在なのだ。その美質が、このデュオの舞台でも輝きを放たれたこと、それを思い出せてもらえたことが嬉しくて、少し泣きそうになった。
1時間20分、ノンストップのステージは圧巻であった。
「本番では、異なる流れやプロセスを生み出して、爆発的な領域に達することができると確信しています。二人でビックバンを起こします」、リハーサルスタジオでそう笑顔を見せたトリスターノの言葉を思い出す。その言葉どおり、二人の宇宙が生み出された夜だった。
ここからは終演後の楽屋トーク。
トリスターノは角野との共演を終えて「彼の音楽性はもう、誰にも止められないね。 Unstoppableだよ!」と伝えてくれた。
ラヴェルのリズムの刻みについて、「右手大変だったのでは?」と聞くと、「全然大丈夫だよ。僕がアレンジしたものだし、これまでにもアリス=紗良・オットとも演奏してきたから慣れてはいるんだ。でも、今日はびっくりしたよ。かてぃんが、途中でメロディーのリズムを(歌う)こんな風に変えてきたから、うわ〜スゲェー!!って思った」(この「スゲェー」のところは日本語・笑)。それをきいて「あははは!」と笑う角野。
ラヴェルもバッハも角野さんの演奏で聞けたのは新鮮でよかった、と伝えたところ、「(ラヴェルは)ああ、そうかもしれない。バッハは、実は半年ほど前から興味が湧いてきてたんです」とのこと。今後もレパートリーの幅は広がっていくのだろう。まさにunstoppableである。
終演後楽屋にて(撮影=飯田有抄)
取材・文=飯田有抄

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