ピアニスト渡邊智道「ロマンティック
な音楽家たちが一番輝いていた時代の
音楽を」 NYスタインウェイ “CD75
”で奏でるリサイタルの構想を聴く

日本コロムビアが贈るクラシック音楽界の新たな才能を紹介するシリーズ『5STARS』。2022年5月7日(土)、東京・浜離宮朝日ホールで開催されるソワレには、知る人ぞ知る "孤高の” ピアニスト渡邊智道が登場する。ホロヴィッツが愛用したNYスタインウェイ “CD75” を駆使しての2年ぶりのリサイタル。演奏会を前に本人に意気込みを聴いた。
――今回の演奏会のラインナップについてお聞かせください。
21年5月にリリースしたCD第二弾 (『渡邊智道 クラシックレコーディング』) の録音の際にタカギクラヴィアさんからニューヨーク・スタインウェイの “CD75” をお借りしたのですが、今回の演奏会でもお借りできることになりまして、「あのピアノならライブ演奏で弾いてみたい作品を」というのが、私の中での曲目選考の基準となっています。基本的に今回演奏予定の曲目はまだライブでは一回も演奏していないものばかりで、とても楽しみにしています。
――プログラム冒頭にドビュッシーの前奏曲第一集・第二集から「沈める寺」「花火」が予定されています。本来なら全曲聴きたいところですが、あえてこの二曲を抜粋して選んだ理由は?
この二曲は僕自身「好きすぎる」くらいに感じている作品です。確かにドビュッシーの前奏曲は全曲弾きたい気持ちもあるのですが、演奏会の場合は一定の時間で効果的にプログラミングしなくてはいけないので、あえて二曲にしました。でも、機会があれば、ゆくゆくは全曲弾いてみたいですね。
――「沈める寺」は、ケルトの伝説からインスパイアされていて曲想も神秘的で文脈的にも富んでいます。
「沈める寺」や「花火」というタイトルは、実は作曲家の自筆譜を見ると決して曲の始まりに書いてなくて、最後に見えないように書いてあるんです。
――そう言えば、デュラン版の楽譜ではそれに近い表記の仕方になっていますね。
はい、作曲家の意図を上手に反映していますね。やはり芸術的な出版社だと思います。なので、むしろタイトルから想起される思いや先入観を失くして聴いて頂けたらと思っています。
――ドビュッシーの前奏曲自体、作曲家の音響的、そして奏法においても実験的な要素が試みられていますが、そのような点にご自身の演奏や興味との親和性のようなものを感じますか?
私の中では、ドビュッシーの音楽に「音無き音」というものがとても感じ取れるんです。もちろん音楽ですから音が鳴っているには違いないのですが、ドビュッシーという作曲家は、自然の中にある静寂を音を通して表現できた唯一の作曲家だと思っています。僕自身の中では、特にこの二曲にその感覚を露骨に感じるものがあります。
――それは、一つの視点として倍音の響きが成せる技であったりなど……、そのような捉え方もできるのでしょうか。
まさにその点も言及したいところで、今回使うピアノもその点を最大限に生かせれば、スゴく効果的だと思っています。
――しかも、浜離宮朝日ホールの空間ですし……。
そうなんですよ!
――“CD75” というピアノは、メカニズム的にも、他のモデルとは一種異なる音の響きを生みだすことが可能なのでしょうか。
“CD75” に限らず、ひと昔前の、例えば1970年代から80年代くらいまでのニューヨーク・スタインウェイというのはボディ自体が薄くて平たくて、見た目の割にとても軽いんです。なので、単純に言ってしまうと「よく震える」。ただ、ボディが繊細な分、脆く、管理する点においては大変です。響きの質というのは、物理的な楽器の重さや丈夫さと反比例する関係なんだと思います。
――ということは、アクション部分もそれなりに異なるわけですね。
やはり、軽いので、それだけ打てば鳴ってしまい、大きな音が出てしまいます。
――それだけに、コントロールが難しいということですね。
あまり言いたくはないですが、そういうことです(笑)。
――それがこの楽器の魅力とも言えるわけですね。
多分、演奏家目線での魅力ですね(笑)。
――ドビュッシーの後に予定されているのは、アンリエット・ルニエ(1875~1956)という女流作曲家の「黙想」という作品です。ハーピストでもあり、修道女のようなストイックな一生を送ったようですが、彼女の作品のどのような点に惹かれたのでしょうか。
こんなにも色気のある曲を書いておいて、そういう人生を送っているんですよね(笑)。私の中ではルニエはハーピストというよりも、あえて “作曲家” と認識していますが、技術的にも、そして感性という面でも屈指の芸術家だと感じています。実際、ハープ奏者の間ではレジェンドのような存在です。
――ハープのためのオリジナル作品を、渡邊さんご自身で編曲されたわけですね。
ハープが奏でる音の世界観を壊さないようにピアノに合う編曲を地味に施しました。気づかれない程度に響きの調整をしています。私自身、ハープの音にはかなりの特色があると思っていて、ルニエの音楽も確かにその世界感の中で展開しています。ハープ音楽と言うと、一般的に聴く方もそれなりの音をイメージし、ある種の固定観念の中で聴いてしまっている部分もあると思うんですが、私はむしろ、それがとても好きなんです。
ただ、ハープの音楽であっても、彼女が生みだす作品が持つ狂気や病的な部分にもっと普遍性を持たせてもいいかな、とつねづね感じていました。そういう意味合いも込めて、今回ピアノを通して私なりにこの作品を演奏してみようと思いました。ハープの人たちもピアノの曲をバンバン演奏していますから、その逆があってもいいかなと思うんです。
――ルニエの作品とショパンの「ソナタ 第3番」の間には他にも数曲入りそうですね?
実は候補がありすぎて……今、悩みに悩んでいます。昨日と今日ではまったく違う作品候補のタイトルをプロデューサーに送ったりしています(笑)。
――でも、一貫して「ライブで実現してみたい曲たちを」という思いはあるわけですね。
はい。あのピアノですから、ドビュッシー作品の他にも、ラフマニノフ、リスト、スクリャービンなどを演奏してみたいと思っていて、ロマンティックな音楽家たちが一番輝いていた時代の音楽をお届けしたいと思っています。
ルニエもドビュッシーもそうですが、“CD75” というピアノ自体が誕生したのもこれらの作曲家が生きた時代に限りなく近くて(1912年)、ラフマニノフ、マーラー、ワーグナーなどが活躍した時代ですから、多分、そんな変なものは演奏しないと思います(笑)。
――では、当日までのお楽しみということで、「正統派な後期ロマン派のレパートリーから」という感じにしておきましょう(笑)。一方で、確定している ショパンの「ソナタ 第三番」については、渡邊さんは「どう演奏されるべき」と考えていらっしゃいますか?
「~べきだ」という思いを持ったことは無いのですが、やはり、その場の空間の響きやピアノによって自ずと作用されるという点は大きいと思います。一方で、最近、自分の中で変化が起こっていて、正直、奏法に関しては「どうでもいいかな」と思っているところもあるんです。
「ショパン独特のスタイルを表現する」とか、「響きをどう作るか」というのもとても重要だと思いますが、私自身としては、作品が楽譜に落とされる前の作曲家の混沌としたイメージというのを、むしろ大切にしています。そうなると実際の奏法などはそんなに関係ないと思うんです。
私自身の中でも、あのピアノ(”CD75”)の力を借りれば、作品の原点に迫る演奏も自ずと実現できるかなという期待もあります。なので、このソナタに関しては、最大限にピアノと良い関係を保ち、絶妙なタッグ感を出すことで、思い描く世界に近づけると感じています。
――作曲家が最初に着想した段階のイメージをまず思い浮かべる……。
音楽でも美術でも、文学でもない、モヤモヤとした状態のもの。作品のイメージ自体に直接アクセスする感覚ですね。
――それは、このショパンのソナタに限らず、すべての曲に対して渡邊さんの音楽的なアプローチの方法なのでしょうか。
そうですね。ただ、演奏会直前や本番の舞台でやることではなく、それまでの準備期間に私自身の “耽溺” は十分に完了していなくてはいけないんです。もし、本番でそれをやったら多分、気持ち悪いですし……(笑)。そのように、つねに演奏会までの準備期間の時間を最大限に楽しんで過ごしたいと考えています。
――そして年齢を重ねるごと、一回の演奏会を経るごとに深さなども変化してゆくわけですね。
生きている限りはですね。あと、我々の身体は時代にも鋭く反応しますし、そういう意味でもおのずと変化していくと思います。
――それにしても、セカンドアルバムでのショパン「ソナタ第3番」の終楽章のロック的なテンペラメントの凄まじさ、一方で、近代メカニズムの楽器の音とは思えないアルカイックな音色の美しさと煌めきに度肝を抜かれました。
ありがとうございます。楽器自体の能力もスゴイと思いますが、あの響きやメカニズムを現代に復活させる技術が素晴らしいと思います。そして、音やメカニズムに対する哲学や技術とともに、その確固たる思いを護り続けてきた人たち、そして、それを受け継ぐ現代の技術者たちの技と使命感に感謝したいと思います。「よくぞ現代にたどり着いてくれた!」と感じています。
――今回のリサイタルで使用予定のタカギクラヴィアさん提供の “CD75” は、そもそも歴史的にどのような経緯を経てきたのでしょうか。
1912年製で、アメリカから渡ってきた時の状態と今の状態も、もちろん違うはずですし、ホロヴィッツが弾いていたピアノですから、彼が指を下ろす鍵盤の深さとタイミングを計測して調整し、復活させたと聞いています。
――ホロヴィッツの音が “CD75” の演奏においては、ある種の基準とも考えられていますが、渡邊さんご自身の中では、ホロヴィッツへの特別な思いというのはあるのでしょうか。
それはないですね。むしろ、たとえラフマニノフ作品の演奏であっても彼のピアノが絶対とは思ってないですし。私自身としては、別の魅力すら “CD75” という楽器に感じています。
――具体的にどのような点でしょうか。
特徴や美点に関しては、純粋に高音の煌びやかさと、低音の雷のように轟く響きなどがよく挙げられますが、個人的にはそれ以上に ”中音域の甘さ” というものがあると感じています。
今回のプログラムに置き換えてみても、ルニエもショパンも、ドビュッシーも、その特色を存分に聴かせられる作品だと思っています。聴いて下さる方に特別意識して欲しい、ということではなく、私個人として一番好きで、こだわりを感じるポイントです。
――ところで、渡邊さんは作詩・作曲、雑誌制作や脚本執筆なども行っているということですが、そのマルチな才能とエネルギーはどこから湧きでるのでしょうか。
プロフィールのその部分は削除してください(笑)。確かに本も文章も好きで、頼まれて書いていた時期もありました。言葉にすることで良いこともたくさんあるのですが、啓蒙的なことをテーマに求められると躊躇してしまうこともありまして……。「ここまで言葉で言ってしまうのは……」、と思うところがあり、今はあまりやっていません。
――最後に、演奏家としてこれから目指しているもの、ご自身が抱いているヴィジョンをお聞かせください。
いつも思うのは、「本当に生きているだけありがたい」と思っています。ライブも好きですが、作曲も好きなので、作曲をすることも含め、「その時代時代で、ちゃんと生きていく」ということでしょうか。
――天災、戦争、パンデミック……という現実が実際にそこに迫っている今だからこそ、感じられる言葉です。
そうですね。まずは「自分自身が健康でいられればこそ」ということが一つの柱で、生きていられれば、どんな時でも音楽は自然に生まれるのだと感じています。
あとは、目に見えないところへのアンテナをつねに持ち続けることが大事だと思っています。音楽自体ももちろん目に見えないものですから、目に見えるありがたみだけを感じているのはまったく無意味だと思うんです。精神的に豊かでいる為にはそういう生き方をしていかねばと感じています。
――今後、海外に活動の幅を広げていきたいという思いもありますか。
それについては、求められたところで、そして「自分自身が演奏したい」「何かをやりたい」と思った所で活動するのが一番良いと思っています。個人的には、もちろん見てみたい国、そこで演奏してみたいと思う国や場所はたくさんあるのですが……!
取材・文=朝岡久美子 写真=荒川潤

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