スーパースターになった
リオン・ラッセルが
自分のルーツへ大きく舵を切った
意欲作
『ハンク・ウィルソンズ・バック』

『ハンク・ウィルソンズ・バック』
までの歩み

本作は彼の代表作ではないので、ここで彼の詳細な経歴を伝えるのは適当ではないと思う。あくまで、かいつまんで紹介するとしよう。

レオン・ラッセルは1942年、オクラホマのタルサ近郊の町で生まれている。幼少の頃から音楽の才能を発揮し、ティーンエイジャーの頃には早くも天才ピアノ奏者として、地元のミュージシャンと仕事をしていたという。ハイスクール卒業後は迷うことなく音楽の道を選び、セッション・ミュージシャンとして、数多くのレコーディングに参加するようになる。2016年に日本でも公開された映画『レッキング・クルー~伝説のミュージシャンたち(原題:The Wrecking Crew)』には、若かりし頃の彼がその一員であったことが記録されている。あの有名なロネッツの「Be My Baby」のキーボードはレオンだ。

自身のバンド、スターライターを組んでツアーに出るほか、地元タルサには彼と気心の合う、優れたミュージシャンが多数いることを幸い、彼らをLAに呼び寄せて自分の音楽のベースキャンプを作っていく。そのタルサ・コネクションとでも言うべき仲間の中には後にエリック・クラプトンとデレク&ドミノスを支えるカール・レイドル(ベース)やこれまたクラプトンと大きく関わることになるJ.Jケール、ネイティヴ・アメリカンのギタリスト、ジェシ・エド・デイヴィスらがいた。優れたソングライターだったロジャー・ティルソンもタルサだし、ザ・バンドを始める前のリヴォン・ヘルムがふらりとやってきてその輪に加わることもあった。

確かなテクニックと経験に裏付けられたレオンのプレイ、プロデューサーとしての才能を示すサウンドづくりは、やがて60年代、米国だけでなく英国のポピュラー音楽シーンでも引く手あまたとなる。彼の関わったアーティストは枚挙に暇がないが、とりわけデイブ・メイソン、ジョー・コッカー、デラニー&ボニーらが成功した要因には、彼の功績が少なからず絡んでいるといえよう。そしてマーク・ベノとアサイラム・クワイヤというデュオを組みアルバムを制作したのち、レオンはついにフロントラインに立つ。

最初のソロ作『レオン・ラッセル』(’70)はロンドンのオリンピックスタジオ、他で録音され、ローリング・ストーンズ全員、クラプトン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、デラニー&ボニー、スティーブ・ウインウッド、ジョー・コッカー、他が参加するという豪華なものになる。が、いかにもレオンらしい、無駄のない、引き締まった内容にまとめられているのはさすが。ここから「ソング・フォー・ユー」「デルタ・レディ」のヒットが生まれている。アメリカのBillboard 200では60位に達し、まずまずの結果をおさめる。現行のCDにはボーナストラックとしてボブ・ディランのカバー曲「戦争の親玉(原題:Masters of War(Old Masters))」が追加されている。

翌年には早くも2作目『レオン・ラッセル・アンド・ザ・シェルター・ピープル』(’71)が出る。今度は舞台をアメリカ南部に移し、アラバマ州北部のあのマッシュルショールズで録音されている。録音にはタルサ仲間のほか、当然のことながらデヴィッド・フッド、バリー・ベケット、ロジャー・ホーキンスら黄金のリズムセクションが参加している。オリジナルのシングルヒットこそなかったものの、「激しい雨が降る(原題:A Hard Rain’s a-Gonna Fall)」(ボブ・ディラン) 、「悲しみは果てしなく(原題:It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry)」(ボブ・ディラン)、「ビウェア・オブ・ダークネス」(ジョージ・ハリスン)といったカバーを含み、アメリカのBillboard 200では17位に達し全英アルバムチャートでも29位まで伸びる。こちらも現行のCDにはボーナストラックとして「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」(ボブ・ディラン)、「ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット」(ボブ・ディラン) 、「彼女は僕のもの(原題:She Belongs to Me)」(ボブ・ディラン)のカバーが追加されている。

ちょうどその頃のこと、実際にレオンとディランは親交を深めていた。1971年3月、ディランから新しいサウンドを試したいと連絡があり、スタジオに呼ばれて「川の流れを見つめて(原題:Watching the River Flow)」 と「マスターピースを描いたとき(原題:When I Paint My Masterpiece)」をセッションしたという。それらの音源はディランの『グレイテストヒッツVol.II』に収録されている。

そして、同年8月、ジョージ・ハリスンから全幅の信頼を得ていたレオンは彼に請われ、あのチャリティーコンサートのいわばバンドマスターを任され、大舞台を仕切っている。ハイライトのひとつ、ディランのバックをハリスン、リンゴと一緒に務めた場面など、今でもグッと来るものがある。
※バンドマスターの特権を生かして、というわけではないだろうが、登場場面も多いあのコンサートでレオンはドン・プレストンら自分のバンドとともに見応えのあるパフォーマンスを見せている。音源『バングラデシュ・コンサート(原題:The Concert for Bangla Desh)』はデジタルリマスター版が、映像のほうも『ジョージ・ハリスン & フレンズ コンサート・フォー・バングラデシュ デラックス・パッケージ』として、どちらも2005年にリイシューされている。

こうして1971年時点で、リオンは間違いなくロックシーンの中心にいたし、ポピュラー音楽界最重要人物のひとりだったと言っていいだろう。そんな中でソロ名義では3作目『カーニー』(’72)がリリースされる。再び録音はマッシュルショールズ、他で行なわれるが、セッションはあくまでドン・プレストンらシェルターピープルだけで行なっている。このアルバムからは「タイト・ロープ、そして「マスカレード(原題:This Masquerade)」のヒットが生まれる。アルバムはBillboard 200で自己最高の2位に達し、シングルカットされた「タイト・ロープ」はBillboard Hot 100で11位を記録。そのB面に収められた「マスカレード」のほうは1976年にジョージ・ベンソンがカバーし、Billboard Hot 100 で10位、Hot Soul Singles で3位と大ヒットになっている。同曲はまたカーペンターズをはじめ、ジャンルを越え、多くのアーティストにカバーされている。

レオン・ラッセルのことをまったく知らず、その音楽も未体験という方は、まずはシングルを中心に組まれたベスト盤のようなものか、ここに挙げた初期のソロ3作から聴いてみることをおすすめしたい。
※機会があればそれら、彼の代表作もいつか紹介したいと思う。

その頂点に立っていた時期に、当時としては異例のアナログ盤3枚組のボリュームでリリースされた『レオン・ライヴ!!(’73)も、その体裁でありながらもBillboard 200で9位を獲得。名実ともにレオンはスーパースターだった。
※ちなみに「スーパースター(’69)もレオンとボニー・ブラムレットによる共作曲で多くにカバーされる名曲である。
※1973年11月8日の日本武道館での来日公演の模様を収録した、日本のみの発売だった『ライヴ・イン・ジャパン』(’74 )も現在、CDで復刻されている。

OKMusic編集部

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