佐藤千亜妃、"自分自身"をパッケージ
した2作目のフル・アルバム『KOE』に
ついて語る

佐藤千亜妃の2作目のフル・アルバム(きのこ帝国の活動中にリリースしたミニ・アルバムを含めると3作目)である『KOE』は、どの曲にも耳をえぐられるようなラインがあり、どの曲にも口ずさみたくなるメロディがあり、どの曲にも、大音量で細部まで味わいたくなる演奏がある。ずっしりした重量のある作品だ。

プロデュースは、本人と河野圭の共同。ギターで参加したのは、名越由貴夫、岡田拓郎、真壁陽平、井上銘。ベースは新井和輝、越智俊介、山口寛雄、須藤優、THE ORAL CIGARETTESのあきらかにあきら。ドラムは石若駿とmabanua。内田麒麟ストリングスが5曲で弾いているし、ホーン(織田祐亮・永田こーせー・前田大輔・大田垣”OTG”正信)が入った曲もある。オール打ち込みのバック・トラック+ボーカルの曲も2曲。「愛が通り過ぎて」には、今注目のギタリストIchikaが参加しているが、弾いているのはギターではなくハープである。
という参加ミュージシャンの豪華さとそれぞれのプレイ&アンサンブルも、シンガーとしての自身のポテンシャルも、「今、何を、どう歌うか」を突き詰めた結果生まれた、パーソナルでディープな歌の世界も含めて、まさにやれることはすべてやった、総力戦のようなアルバムについて聞く。
■その作品が自分自身じゃないと、意味がない
──SPICEでのインタビューは、3月の「声」と「カタワレ」のタイミング以来ですが( https://spice.eplus.jp/articles/283981 )。その時は「次のアルバムは、ディープだと思う人がいるかもしれない」とおっしゃっていて。
そうですね、すごく自分と向き合った、コアな作品になったかな、と思います。前回もお話ししたと思うんですけど、「声」をテーマにアルバムを作ろうっていう構想は、ファースト・アルバムよりも前からあって。で、去年(2020年)の初頭から作り始めていたんですけど、コロナ禍という状況になって、ステイホーム期間に入って。その中で、ショッキングなニュースがあって、それをモロに受け取ってしまったりとか。
──「Who Am I」の時に、「去年、人の生き死にに関わるショッキングなニュースがあり、そんな時どうしても書かずにはいられなかった曲です」と、ツイートしておられましたよね。
はい。それで、いろんな自問自答をする中で、音楽を作るっていう行為に、すごく救われた部分があって。「音楽ってなんだろう?」とか、「自分が歌う意味ってなんだろう?」とか、それこそ「自分って何者なんだろう?」っていうことまで考えた中で……もともとは、聴こえる声、歌声としての声を表現しようと思ってたんですけど、コロナ禍の期間を経て、声にならない声、心の中に抱えてるけど、人には言わなかったり、言うことができなかったりする声。そういう心の部分に寄り添ってくれるのが、音楽かな、と思ったりて。自分も、言葉では人には言えないようなことも、音楽としてだったら吐き出せたりして、それで自分の中でわだかまってたものが、ちょっとだけ消化できたり。そういうところが、音楽の素敵なところだなあ、と再確認しました。それで、最初描いていたイメージよりも、より一歩踏み込んだ意味での「声」、心の奥にある「声」を表現した作品になったかな、と思いますね。
──この時期に感じたこと、考えたことを、音楽にして残しておかねば、と思った?
そうですね。1枚目のアルバムを作ったあと、次はソロ・アーティストとしての自分の名刺みたいな作品を作らないといけないな、と考えていて。ソロの1枚目を作り始めた頃は、まだ、今後もきのこ帝国をやっていくことが前提だったので。バンドでできないこと、たとえば打ち込みにもトライして、いろんな方向へ向けた、パブリックな作品にしよう、と思って作ったんです。
──そうか、作っている途中で、きのこ帝国の活動休止が決まったんでしたよね。
はい。で、そのアルバムを作ってみて、次は、自分にしか作れないものを作りたいし、作らないといけない、という思いが強くなって。パブリックっていうよりパーソナルな、プライベートな……影だったりとか、内面の機微だったりとかを投影して。自分のきれいなところだけを描くんじゃなくて、嫌いなところも……その作品が自分自身じゃないと意味がない、と思って。欠けてたりとか、人から見たら変だなと思われるようなクセとかも、あえて残した作品が作りたいなと思うようになってきました。
──前回のインタビューで、「最後の作品になってもいいぐらいのものを作らないと」とも、おっしゃってましたよね。
そうですね。コロナ禍っていう状況もあって、正直、自分が来週生きてるかも、わからないじゃないですか。誰しもそうだと思うんですけど。なので、明日死んでしまってもいいように作品を作らないとな、と。音楽を作る行為に救われたというのは、前にも言ったと思うんですけど、同時に自分をずっと試し続けているかのような。「これでいいのか? これが正解なのか?」っていうジャッジメントをしながら、今まででいちばん踏み込んだ形で、厳しく作っていたので。けっこうしんどい時もありました。しんどいのと、ちょっと報われたかなと思う瞬間が、交互に来る感じで。
──「これでいいのか?」というのは?
これは自分なのかどうか、っていうことを、すごく検証していました。今回、河野圭さんと共同プロデュースだったので、河野さんにも相談したりしながら。たとえば「カタワレ」は、この中では異色なぐらいポップな曲だと思うんですけど、「最近デビューしました!」みたいな、フレッシュなシンガー・ソング・ライターっぽく、うまく歌うこともできる。そうじゃなくて、きのこ帝国とかいろんなキャリアを経た上での、今の佐藤千亜妃が歌える歌、っていうのもある。そのジャッジメントが難しくて……歌のテイクが揃って、「どっちの方がいいと思います?」って河野さんに相談したら、前者に対して「いや、佐藤千亜妃はこうは歌わないでしょ」って、はっきり言ってくれるので。個人的に好き嫌いで言えば、うまく歌えている方がいいじゃないですか。でも、歪だったり欠けていたりする部分が、個性だったりするのかな、と。数年後に聴いたら「荒削りだな」って恥ずかしくなったりする日が来るかもしれないけど。自分自身をパッケージした作品にしたいので、いつか嫌いになってもいい、っていうぐらいの気合いで、ソフィスティケートしすぎないよう意識して、作ってました。
■ライブがなかなかできない今の状況の反動が、
 絶対来る、と思っていて
──以前から佐藤さんには、J-POPのど真ん中のような、ずっと聴かれ続ける音楽を作りたい、という気持ちもありましたよね。
はい。でも、ど真ん中の歌っていうものの考え方が、そもそも変わってきたかもしれないです。前はもっと、器用に、上手に、狙いどおりやることで、王道のものが作れるのかなって思ってたんですけど。今は、「これ、売れるだろう」っていう器用な曲よりかは、それぞれの個性が出ていたり、独特のストーリーがあったり、全然普通じゃない曲なのにヒットしていく、みたいなことが、すごくいい意味で巻き起こっている気がしていて。
──ああ、それはわかります。
ソフィスティケートされた、誰でも好きそうな曲っていうのは、逆に聴かれない傾向にある気がしていて。でもそれって実は、昔からずっとそうで。魂を反映した、どうしても届けたいんだ、っていう心臓みたいなものがある曲の方が、聴かれるし、長く残るし、人の人生を動かしたり、傷口をふさいだりするというか。なので、今回作ったアルバムが、王道から距離があるかっていうと、自分はむしろ近づいたのかなと思っていて。あと、そもそも思い描いていた自分の夢、目標が、具体化してきたなという感じも、すごくしています。
──というのは?
前はもうちょっと、ぼんやりとしてたんですね。いろんな人に聴いてもらって、曲もいっぱい売れて、みたいな。それが、もうちょっとリアリティのあるイメージになってきたかな、っていう。自分がいかに自分のままで、欠けた部分とかも表現にして……自分が作る曲の中でも、自分がすごく好きな表現ってあるんです。自分はこれがやりたいし、これが最高だと思う表現。それが個性だと思うので、「ああいうのをやれば売れるでしょ」じゃなくて、それをしっかり突き詰めて、感動とかエネルギーをシェアできるところまで楽曲を持っていければ、状況とかは自然に付いてくると思っていて。あと、ライブがなかなかできない今の状況ですけども、この反動って、絶対来ると思っています。
──あ、そう感じます?
はい。みんなライブに行けなかったり、フェスが中止になったりっていう中で、悲しい声って届くじゃないですか。なので、このまま衰退していくっていうことは、絶対なくて。振り子みたいに、反動が絶対あるから。それでライブができるようになった時に、ストロングな表現をできるようにしていないと。器用にやるとかじゃなくて……すでにできることもあるんですけど、そこからさらに踏み込んで、自分にしかできないことへ、新たに生み出していかないとなって。
■共感じゃなくて、共鳴っていう形でサウンドが生まれた
──今回、河野圭さんとの共同プロデュースですが、たとえば「この曲はストリングス入れたい」というような意見は、どちらから出ることが多かったんでしょうか。
同時でした。もう、一緒に作ろうって腹をくくってたので、意見もたくさん出してもらいましたし。逆にこっちから……たとえば、「声」は、最初はエレキギターは入らない予定だったんですけど、わたし的には、北欧っていうか、雪景色が似合うような、ちょっとヒリヒリした要素を入れたいから、「名越さんのギター、どうですかね?」って提案したんです。そういうふうに、ひとつひとつディスカッションして、向き合っていきましたね。ミュージシャンも、呼んだミュージシャンにこういうふうに弾いてもらう、じゃなくて、こういうふうに弾くであろうミュージシャンを呼ぼう、という。なので、現場に来てもらったら、その人なりの個性で弾いてもらうだけ、みたいな感じで、バンド的というか。それが生々しさにつながったりとか、化学反応的なものが、起きている音になったと思います。
──特に1曲目の「Who Am I」は強烈ですね。後半の、人力ドラムンベースみたいなアレンジは、どんなふうに生まれたんですか?
プリプロをやったおかげですね。特に曲の後半は、セッション感覚でグイグイいっちゃってもいいかもしれない、とお伝えして。で、何回も何回もやっていくうちに、石若くんがドラムンベースみたいなリズムを叩き始めて。それがすごくよくて、「このドラムになるんだったら、名越さんはもっとギターいっちゃってください」みたいな。ソロのプロジェクトだと、ギターとかドラムって、あまり攻めないで譜面どおりにやる、みたいなイメージがあったみたいですけど、それだとお呼びした意味がない方たちだな、と思ったので。それぞれ野性的なミュージシャンじゃないですか? 新井(和輝)くんのベースも、すごい雄弁だし。プリプロでの現場でのアレンジがなかったら、こういうふうにはなってないかもしれないですね。
──歌っていることとリンクしていますよね。
そうなんです。でも今回、「この曲はこういう気持ちで歌ってるんですよ」っていうのを、まったく説明しなかったんですよ。メンバーそれぞれ自分なりの解釈で、自分の感情ものせて演奏してくれた感じがしていて。だから、共感じゃなくて、共鳴っていう形でサウンドが生まれたのが、個人的にはすごいあがるっていうか、うれしい。みんなで一方向を向くんじゃなくて、プレイヤーひとりひとりの人生があるから、それぞれの説得力で鳴らしてもらった方がいい、っていうのを、作り終わった後に感じました。「あ、これって共感じゃなくて共鳴で作ったから、こんなにフィットして感じるし、かっこいいんだな」って。
■好きな人を考える時に、
 同時に私は死を考えるんですよ
──で、ラブソングが多いアルバムですけど、どの曲も、ラブソングでありながら、生き死にに直結する曲ばかりだなと思ったんですが。
そうですね、人生というか。うまい人だったらこうするだろう、ほかの人だったらこうするだろう、というのを、全部いったん取り除いて。自分だったらこうしたい、を突き詰めたら、こういう形に結実しました。歌詞の内容にしても、メロディにしても、自分の中にあって、自分がやりたいものだけを曲として入れたので。なので、聴いて死生観みたいなのを感じたとしたら、自分のパーソナルな部分が投影されているからだと思います。「甘い煙」ぐらいじゃないですか、軽薄なのって(笑)。
──でも「甘い煙」も、最後のブロック、<愛を愛と思わず 恋を恋と気づかず そんなくらいがいいよ>というところは──。
ああ、やっぱり自分の感性が投影されてるなと思いますね。<夜空にちょっと涙こぼれる>のところも、自分っぽいなと思います。
──ラブソングなのに「棺」という曲もあるし。
「棺」、いちばん好きな曲なんですよ。これをラブソングだと思う人がいるかはわかんないですけど、自分はそう思って作ってます。
──ラブソングであることって、佐藤千亜妃にとって、やっぱり大事なんでしょうか。
ソロ活動が始まった時に、「バラードを書きたい!」みたいなモードがすごくあって。バンドだと、ザ・バラード! みたいな曲って、そんなに作ったことがなかったので。自分の中ではバラード=ラブソングなんですよね。それでラブソングの比重が多い、っていうのはあるんですけど、「Who Am I」とか「rainy rainy rainy blues」とかは、コロナ禍になってから書いた曲なので、ラブソングというよりは、自分の人生を、自分自身を見つめるような曲になっています。テーマ的には、自分と向き合う曲から始まるのがいいと思ったので、最初はその2曲にして、後半は、ラブソングを多めに。先に重めの曲を聴いてから、軽やかになっていった方がいいなと思って作りました。
──そうか、バラードを書こうと思うとラブソングになるんですね。
そうですね。あと、ラブソングみたいな形を通して、死生観を伝えるっていうのが、自分は好きなのかもしれない。
──ちょっと不思議だったのが、そもそも佐藤さんの資質として、あんまり、恋愛に依存するとか、他人に依存する体質じゃないのでは、と。
じゃないですね、ほんとに。私、すごく重たいタイプなんですよ。人を好きになることが、そんなに頻繁にないので。男性じゃなくても、同性の友達とかでも。一回好きになったら、人間が好きだから、死ぬまでその人のことは好きなんですけど。っていう中で、だからこそ、考えが……ちょっとおかしいことを言うかもしんないですけど、好きな人を考える時に、同時に私は死を考えるんですよ。わかります?
──ああ、わかります。
死ぬところまで、っていうのを。小中学生の時からそうなんですよ。エロスとタナトスという話を、大人になってから本で読んで。思春期に、エロスが抑圧化された環境にいると、タナトス、死の欲求の方に行く、というのを読んで、「なるほど!」と思ったんです。たとえば、太宰治の『人間失格』を中2で読んで、「なんで自分の話がここに書いてあるんだろう?」と思うくらい、ドンズバではまって。そこが自分の分かれ道だったんだな、って思います。
──じゃあずっと一貫しているんですね。
はい。エロスじゃなくてタナトス、死への欲求っていうのは、大人になってもあって。だから、恋愛、ってなった時に、エロスに行くんじゃなくて、死の匂いの方を察知してしまうんですよね。その人と人生を終えたいとか、その人に私を終わらせてほしいとか……危ない話、してますけど(笑)。死生観と向き合う時に、愛する人のことを考えるし、逆に愛する人のことを考える時に、死生観も含まれてくるという。でもこれは、人間としては普遍的な感情かなと思っていて。死生観と愛を、切り離しては考えられないじゃないですか。音楽もそうじゃないかな、と思っていて。曲を作ってる時は、そんなこと何も意識してないですけど。生きることって、誰かと向き合い続けないといけないことだと思うから、それが表現の中にも、自然に盛り込まれてるんじゃないかと思いますね。

取材・文=兵庫慎司 撮影=高田梓

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