「ザ・ブロードウェイ・ストーリー」
VOL.4〈ホワイト・クリスマス〉を創
った男(Part 1)

ザ・ブロードウェイ・ストーリー The Broadway Story

☆VOL.4〈ホワイト・クリスマス〉を創った男(Part 1) 
文=中島薫(音楽評論家) text by Kaoru Nakajima
■アメリカが愛した国民的ソングライター
 VOL.3で紹介した、1927年初演の『ショウ・ボート』。しっかりした脚本を元に、シリアスな人種問題に取り組み、ブロードウェイ・ミュージカルの礎を築いた。しかし、その後もこのタイプの作品が続いたかと言えば、さにあらず(『ウエスト・サイド・ストーリー』の登場は、30年も後だ)。1920年代後半~30年代のブロードウェイは、エンタテインメントに徹したレビューやミュージカル・コメディーが幅を利かせた。その中で、ソングライターとして名を上げたのが、今回紹介するアーヴィング・バーリン(1888~1989年)だ。バーリンの名は知らなくても、最大のヒット曲〈ホワイト・クリスマス〉は、毎年誰もが耳にしているだろう。彼は、ブロードウェイとハリウッドを制覇した作詞作曲家だった。
〈ホワイト・クリスマス〉を映画で創唱した、ビング・クロスビーのレコードは日本でも広く親しまれた。
 かつて『ショウ・ボート』の作曲家ジェローム・カーンが、アメリカの音楽史におけるバーリンの位置付けを問われ、こう答えた。「バーリンに位置付けは不要。彼が、アメリカ音楽そのものだからだ」。これでお分かりのように、バーリンはアメリカの楽天性を象徴する、明朗でキャッチーな楽曲を量産。近年では、レディー・ガガと大御所トニー・ベネットのデュエットで話題になった〈チーク・トゥ・チーク〉を始め、今なお頻繁にカバーされているスタンダード〈ブルー・スカイ〉、胸弾むショウビズ賛歌〈ショウほど素敵な商売はない〉など、人々の心を鼓舞する名曲で一世を風靡したソングライターだった。
■新天地で放った大ヒット
 1888年(明治21年)生まれというと太古の人物のようだが、亡くなったのが1989年(平成元年)。バーリンは、没年齢101歳と長命だった。生まれは、帝政ロシア時代のシベリア西部(生地は諸説あり)。ロシア系ユダヤ人を両親に持つバーリンは、後の傑作ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』(1964年)で描かれるように、ユダヤ人迫害から逃れるため、家族と共に5歳の時渡米する。一家が暮らしたのは、貧しい移民たちが集うNYのロウワー・イースト・サイドだった。ところが、彼が13歳の時に父親が死去。赤貧の中、バーリン少年は盛り場で給士の職に就き、チップ稼ぎのために得意の歌を披露した。
バーリン一家が暮らした、NYのロウワー・イースト・サイド界隈(1910年頃)。移民たちが行き交い、活気あふれる街の様子が見てとれる。
 やがて音楽好きが高じ、自作の歌を創り始めた彼の初ヒットとなった曲が、1911年に発表した〈アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド〉。「さあさおいで、聴きなよアレグザンダーのラグタイム・バンド」で始まる調子の良い歌詞と、底抜けに明朗な旋律は、たちまち大人気を博した。ただし当時はラジオ出現前。人々は楽譜を購入し、家庭用の小型ピアノを弾きながら家族で唱和したのだ(同年にレコードでも販売)。加えて、アメリカ全土を席巻していた社交ダンス熱も手伝い、老若男女がこのナンバーに乗って踊りまくった。アマチュアのダンサーにとって、バーリンのシンプル極まりないメロディーが踊りやすかった事は言うまでもない。
〈アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド〉の楽譜
■万人の心を捉えるセンチメンタリズム
 「シンプル」。バーリンの楽曲を表すのに、これ以上に相応しい言葉はないだろう。苦労の末に成功を手にした彼の信条は、「大衆のために、誰もが憶えやすい平易な曲を書く」。生涯に1,500曲以上を手掛けたバーリンは、このモットーを終生遵守した。そして特筆すべきは、〈アレグザンダーズ~〉はもちろん、発表されてから70~100年を経ても、彼の楽曲は躍動感を全く失っていない事。生命力が強いのだ。
バーリンの曲をふんだんに使った映画「世紀の楽団」(1938年)の宣伝用写真。左からバーリン、主演のアリス・フェイ、タイロン・パワー、ドン・アメチ。映画の原題は「アレグザンダーズ・ラグタイム・バンド」。
 また経済的理由から、正規の音楽教育を受ける余裕がなかったバーリンは、譜面の読み書きが出来ず、彼が曲を完成させてピアノで演奏すると、専任の採譜師が書き取るスタイルを貫いた。バーリンに憧れてソングライターを志したのが、『ハロー・ドーリー!』(1964年)や『ラ・カージュ・オ・フォール』(1983年)のジェリー・ハーマン。シンプルかつ親しみ易い作風を受け継ぎ、「次世代のバーリン」と称えられた。以前氏に取材した際、その評価について尋ねると、「これ以上の栄誉はありませんよ」と心底嬉しそうだったのを思い出す。ちなみにハーマンも、譜面の読み書きが出来ない「採譜師お願い型」。2人の楽曲には、手作り感溢れる曲調が共通しているのも面白い。
女性ジャズ歌手の最高峰エラ・フィツジェラルドが、1958年に吹き込んだ「アーヴィング・バーリン・ソングブック」(2枚組)。軽快にスウィングするナンバーからバラードまで名唱揃いだ(輸入盤CD)。
 さらに、バーリン楽曲の大きな特徴がセンチメンタリズムだ。その好例が〈ホワイト・クリスマス〉。永遠不滅のこのナンバーが初めて歌われたのが、映画「スイング・ホテル」だった。アメリカでの公開は、第二次世界大戦中の1942年。「私は、昔懐かしい白銀のクリスマスを夢に見る。木々のてっぺんが雪に煌めき、子供たちはそりの音に耳澄ます」と歌われる歌詞が、海外の戦地で戦う兵士たちの心に響き郷愁を誘ったのだ。
映画「スイング・ホテル」(1942年)で、〈ホワイト・クリスマス〉を歌うビング・クロスビー(左)と、共演のマジョリー・レイノルズ(DVDは、ワンコインの廉価版で入手可)。
■ショウほど素敵な商売はない
 本連載のVOL.2でも紹介したように、ブロードウェイでは1910年代半ばから、興行師ジーグフェルドがプロデュースしたレビューに新曲を書き下ろす。その後、バーリン最長のロングランにして代表作となったのが、1946年初演の『アニーよ銃をとれ』(続演回数1,147回)。実在の女性射撃王アニー・オークリーをヒロインに、射撃ショウの二枚目スター、フランク・バトラーとの恋の顛末を描くミュージカル・コメディーだ。アニーは、女性の社会進出が盛んではなかった19世紀に、一枚看板のスターとして一座を率いた稀有な存在だった。
 初演でアニーを演じたのがエセル・マーマン。宮本亞門の演出家デビュー作『アイ・ガット・マーマン』(1987年初演)で、日本のミュージカル・ファンにも広く知られるようになったミュージカル女優で、豊かな声量をフルに駆使し、朗々と歌い上げる唱法で鳴らした。
『アニーよ銃をとれ』初演(1946年)の舞台より。アニーを演じたエセル・マーマン(左)と、フランク役のレイ・ミドルトン
 本作は、「バーリンのベスト」の評価通り名曲揃いで、中でも〈ショウほど素敵な商売はない〉が圧巻だ。これは、フランクらがショウ・ビジネスの世界で働く醍醐味と辛苦を歌いながら、射撃自慢のアニーを西部巡業の一座へと勧誘する、聴くたびに心躍る傑作ナンバー。今や「ショウビズ界の国歌」の呼び声も高い。他にも、アニーの天衣無縫な個性を生かした〈自然のままに〉や〈鉄砲じゃ男は捕まらない〉など、楽しい曲が満載だ。一語一語を大きな声で、明瞭に発音するマーマンの歌唱スタイルが、これら陽性の楽曲を一層際立たせている。また前述のハーマンが、ブロードウェイの作詞作曲家を目指すきっかけとなったのが、この作品だった。
 マーマンは後年、1966年の再演版でも主演。当時58歳というのが信じられぬほど、張りのあるダイナミックな歌声を聴かせた。その際に録音されたオリジナル・キャスト盤は、ブロードウェイ・ミュージカルへの入門篇に最適な究極の名盤。必聴だ。
1966年再演版CD。バーリンはこの公演のために、新曲〈昔ながらの結婚式〉を書き下ろした(輸入盤)。
 Part 2では、フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズ主演の「トップ・ハット」(1935年)や、アステアとジュディ・ガーランド主演の「イースター・パレード」(1948年)など、全編バーリンの楽曲で彩られたミュージカル映画と共に、その魅力を深堀りしよう。

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