石若駿が語る、技巧派ドラマーの成り
立ちと複数のプロジェクト、そしてm
illennium paradeまで【インタビュー
連載・匠の人】

高いスキルと強いパッションを兼ね備えた20代のミュージシャンたちがどんどん台頭している中で、まるで底が知れない音楽力をもって最も注目を集めているドラマーの一人が彼、石若駿である。北海道出身の28歳。彼がKing Gnuの前身であるSrv.Vinciのメンバーだったことや、常田大希のソロプロジェクトであるmillennium paradeに参加していることはすでに多くのリスナーに知られている。幼少期からジャズに触れ、小学生で地元のビッグバンドのメンバーになり、東京藝術大学音楽学部付属音楽高等学校に入学してからはクラシックの領域で打楽器を学んだ。現在はフリージャズの向こう側を探求するSMTK、歌モノに特化したSONGBOOK、昨年1stアルバムをリリースし中村佳穂KID FRESINOなど多様なゲストを迎えながら、石若駿というドラマーであり音楽家の“拡張していく核”を示したAnswer to Rememberと、3つのプロジェクトを同時進行させている。さらには、くるりをはじめ、サポート現場も枚挙に暇がない。技巧と熱量をナチュラルに融和させながら、誰にも似ていない調和と特色が共存したビートを繰り出す彼のバックグラウンド、そして現在地に迫った。
──2月のAnswer to Rememberの恵比寿リキッドルーム公演(「“Answer to Remember” OHIROME GIG Vol.1 〜石若駿 史上最大の祭り、よろしくワッツアップ」)を拝見しまして。素晴らしかったです。
ありがとうございます。
──残念ながら7月に予定されていた大阪公演は中止になってしまいましたね。
本当に残念でしたね。
──最近はどんな日々を送っていますか?
最近はレコーディング現場がすごく増えてきてます。おそらく自粛期間だったりライブができない期間にアーティストはみんなクリエイティブに曲を作ったり、今後の構想を練っていたと思うんですけど。緊急事態宣言が明けてからはみんなどんどん新しい曲をレコーディングしていこうという流れが生まれているなと思います。なので、週に一回は僕もレコーディングに参加している感じですね。あとは配信ライブも増えてますね。6月と7月は、10本以上は配信ライブに参加していたと思います。それと、ジャズクラブはソーシャルディスタンス仕様で有観客のライブをしていて。そういうこともあってなんだかんだ音楽活動は続けられてます。
──あらためてAnswer to Rememberのリキッドルーム公演は本当に素晴らしかったし、僕も含めてあの場にいた多くのオーディエンスが日本の音楽シーンの一つの夜明けを見たような感覚を覚えたと思うんですね。石若さん自身はどんな手応えがありましたか?
本当にやって良かったなと思ってます。Answer to Rememberのアルバム(『Answer to Remember』)を作ったときは「これ、本当にライブでできるのかな?」と思っていたんですけど、いざ参加してくれたみんなが集まれば一つの方向に向かっていけたと実感できて。それがすごく良かったです。お客さんの層も面白くて。若い人から自分の親世代くらいの人まで、いろんな世代がいたんですよね。それがすごくいいことだなと思って。もともと僕はいろんな世代のミュージシャンと演奏するのも好きなので。あの日、僕はSMTK、SONGBOOK、Answer to Rememberという3つのバンドで演奏したんですけど、Answer to Rememberに関しては今後この規模のライブをツアーとして回っていって、そこから参加ミュージシャンの音楽的なアイデアの提案を受けながら発展できるんじゃないかと叩きながら感じてました。Answer to Rememberとしては初のライブだったし不安もあったんですけど、どんどんライブをやっていきたいと思えた。本当は5月の大阪公演やフェス──ロバート・グラスパーも出演予定だった『LOVE SUPREME JAZZ FESTIVAL JAPAN 2020』への出演も決まっていたので本当に残念でしたけど。
──Answer to Rememberの新曲には着手してるんですか?
もういくつかデモはできていて。あとはレコーディングにどのように取り組んでいこうかなと考えてる段階ですね。来年中にリリースを目指してますけど、そこはまだなんとも言えないです。でも、順調に準備を進めてます。
■小5のとき、大きな火だるまのようにみんなを巻き込みながら大きくなっていくような日野皓正さんの演奏に衝撃を受けた
──今日はあらためて石若さんのバックグランドを聞いていきたいんですけど、そもそもなぜジャズにのめり込んでいったのかというところから教えてもらえますか。
それはジャズという音楽を認識してからですか?
──いや、認識する前の記憶であり衝撃があれば、それを教えてもらえたら。
それは、4歳くらいのときに初めて観たライブが森山威男さんというジャズドラマーの公演で。今でも強烈に記憶が残ってるくらいすごかったんです。一番前の席で父親と一緒に観ていて、ドラムまでの距離が1、2メートルあるかないかくらい近かったんですね。1時間半くらいずっとブワーッ!というテンションで演奏していて。音の迫力もあるし、すごいものを観たという感覚になりました。トラウマになりそうなくらい(笑)。だけど、それをかっこいいと思ったのは間違いないです。
──それは長尺のインプロビゼーションをやるようなステージだったんですか?
そうですね。サックスとのデュオのライブだったので。今考えると森山さんはいろんなスティックを使っていて。ブラシでバーン!とはじいてもいたし、スティックが折れて飛んでいったりもしていたし、そういうところも含めてかっこよかったです。
──お父さんもよく4歳の石若さんをジャズ箱に連れて行きましたね。
親父は学校で音楽の先生をやっていて、ジャズが好きで家でよくかかっていたんです。当時は北海道の室蘭というところに住んでいたんですけど、森山威男さんのようなジャズプレイヤーが室蘭に来るのが珍しいということもあって「よっしゃ行くぞ!」って連れて行ってくれたんだと思います。
──ミュージシャン人生として恵まれた原体験ですよね。
そうですね。あとは小学校4年生のときにジャズのビッグバンドに入って。5年生のときにそのワークショップで日野皓正さんと出会ってさらなる衝撃を受けるんですね。あの人の音楽は本当にデカくて──デカいと言うとすごく抽象的になっちゃうんですけど、まるで大きな火だるまのようにみんなを巻き込みながら大きくなっていくような日野さんの演奏をそのとき観たんですね。日野さんのトランペットとサックス、ベース、ピアノの5人編成の二管だったんですけど、「二管のサウンド、かっこいいな!」と思って。そこからまたクインテットとかジャズの歴史的なフォーマットの編成のCDを聴き漁るようになったんですよね。
──それ以前はジャズの他にどんな音楽に触れていたんですか?
4年生以前はひたすらX JAPANが好きで。X JAPAN解散のニュースが97年に流れて、その翌年にHIDEが亡くなってしまったんですけど、当時テレビでX JAPANのライブ映像がよく流れていて。僕は5、6歳だったんですけど、YOSHIKIがドラムを壊してるシーンとか、ステージ演出で火が出てたりとか、そのインパクトがかっこいいなと思ってX JAPANをよく聴いてました。その他にはレッド・ツェッペリンとかビートルズ、キッスも聴くような小学校低学年でした。
──森山氏しかり、YOSHIKI氏しかり、パフォーマンスのインパクトに惹かれるところがあったのかもしれないですね。
そういうインパクトのデカさがどうやら好きみたいですね(笑)。ジャズばかり聴くようになってからは中学に入って友だちと音楽の話が合わなくなるんですけど。みんなの中で流行ってる音楽──たとえばMr.ChildrenとかBUMP OF CHICKENとかRADWIMPSとかがクラスの中で流行っていて。僕もそこで知っていいなぁと思ってミスチルとかも聴くようになりました。それで、友だちとカラオケに行くとミスチルを歌う人もいれば、僕は「『紅』だ!」ってX を歌ったりしてました(笑)。
──(笑)その時期に日本のポップミュージックにも親しみを覚えた?
そうですね。クラスのみんなの影響もあってそれはまた新鮮な感覚がありました。衝撃というよりは友だちの輪の中の音楽というか。日本のバンドのライブ映像で東京ドームや日本武道館のように大きな会場でお客さんが感動している姿を見て、自分はジャズを勉強しているけどこういう会場でも演奏してみたいなと思いました。形はどうあれあるべきところは一つみたいな。
──小学生のときのプレイヤーとしてのヒーローはどういった方でしたか?
小学生のときは、アート・ブレイキーとかエルビン・ジョーンズとかトニー・ウィリアムスなどを高学年から聴いていて。あとは日野皓正さんの弟さんで、もう亡くなってしまったんですけど、ジャズドラマーの日野元彦さんが残した音源を毎日のように聴いてました。皓正さんに出会ったときに「中学を卒業したら俺のバンドに入れよ」って言ってもらえたんです。結果的に今一緒によく演奏させてもらっていますけど、そのときに弟でありドラマーでありおそらく最高の音楽パートナーだった人を亡くしたということがすごく辛そうで。僕は小学生なりにそれを感じ取って、皓正さんと一緒に演奏したいと強く思ったし、元彦さんの音源もしっかり聴いて勉強しなきゃと思ったんです。なので、ジャズをやり始めて皓正さんと出会ってからは、元彦さんがドラマーとしてのヒーローのような存在になりました。元彦さんについて書かれた証言本があって。それを読んで「こういう人生があるのか」と思ったんですね。自分と重なるところもあったし。その生き方には小学生のころから影響を受けてますね。
──自分に重なるところというのはたとえばどんなところでしょうか?
元彦さんのお父さんはタップダンサーでありトランペッターで。元彦さんも小学生のときにライブデビューしたそうなんです。皓正さんより弟の元彦さんのほうが早くライブデビューしていて。そこから練習して、勉強して19歳でプロデューしていて。同世代にトニー・ウィリアムスやジャック・ディジョネットがいたり、小さいころからリアルタイムでジャズの世界で生きていた。その本を僕はどこか同じ目線で読んでいたんですよね。僕が10歳のときに元彦さんがハタチのときに作ったアルバムを聴いて、「自分はハタチまであと10年か」って考えたり。実際に元彦さんにはお会いできなかったけどすごく身近な先輩でありヒーローという感覚があるんです。
──裏を返せば石若さんも10歳のころから自分の音楽人生の未来を見据えていた。
今考えるとそうだと思います。皓正さんと出会ったときに「中学を卒業したら俺のバンドに入れよ」と言ってもらったことで東京に出て音楽を勉強しようと思ったし、中学の3年間、特に3年生の1年間はそのために勉強しました。
■バークリー音楽院に留学して、同世代のミュージシャンの存在を身近に感じるようになった
──そして、2008年に東京藝術大学音楽学部付属音楽高等学校に入学しますね。ジャズからクラシックの世界に足を踏み入れるわけですが、その決断も興味深い。
東京藝術大学付属高校は超難関校なので、入学するためにクラシック打楽器を勉強し始めて一度ジャズのCDを「封印!」ってダンボールに詰めたんですね。東京に出たら絶対に楽しい音楽生活が待ってると思ったので、この1年間をがんばって入学できたら好きなようにやろうと思っていたんです。それを考えたら勉強も全然苦ではなかったですね。
──クラシックや楽典的な領域も一度は足を踏みれないといけないと思っていた?
なんだろうな? まず、高校に行かないという選択肢は自分の中でなかったんですね。当時、音楽高校はクラシックの分野しか日本にはないのでそのためにちゃんと勉強して、試験を受けて、合格して、卒業しないと意味がないと思ったんです。あとはもちろん、音楽の根本的な仕組みをちゃんと勉強したかったというのもありますね。
──2009年にはバークリー音楽院に奨学生として留学してますが、そこでまた刺激的なジャズミュージシャンたちとの出会いがあったのではないかと思います。
バークリーには札幌にいた中学2年生のときにバークリーの教授が5人来て1週間のワークショップが実施されたときに優秀賞をもらってその奨学金で行けたんです。4年間の間だったらいつでも行っていいよということだったので、高校2年生の夏に行ったんですね。その体験は本当に刺激的で。世界中から集まった同世代のミュージシャンと5週間一緒に寮で暮らして授業を受けたりするんですけど、僕の部屋はロスから来た弾き語りのやつと、もう一人がアース・ウィンド&ファイアーのドラマーのソニー・エモリーの息子で。それで最初に寮の部屋に入ったらソニー・エモリーが立っていて「え!?」みたいな(笑)。あと、ボビー・マクファーリンの娘、マディソン・マクファーリンも同時期にいたし、先日亡くなってしまった素晴らしいトランペッター、ウォレス・ルーニーの息子のウォレス・ルーニーJr.もいたし、今や世界的なスターになったチャーリー・プースや、UKジャズで大活躍しているヌバイア・ガルシアも同じアンサンブルクラスだったし、マーク・ホイットフィールドというギタリストの息子のデイビス・ホイットフィールドってやつもすげえピアノを弾いていて。そういう出会いがいっぱいあったんですね。今でもSNSなどで繋がっていてメッセージを送り合ったりしてます。
──そのときに多くの同世代のミュージシャンと音を交わらせたことがAnswer to Rememberをはじめ今の石若さんのマインドにもつながってる部分があるんじゃないですか?
あると思いますね。あのとき世界中の同世代ミュージシャンの存在を身近に感じるようになったので。それまでは日本のジャズがあってその先に世界があるというふうに見ていたんですけど、バークリーに行って帰国したあとは意外と海外のミュージシャンとの距離は近いんだなと思いました。よりリアルタイムでジャズという音楽を自分の中で感じるようになりましたね。あと、今でこそ自分の周りには同世代の日本のミュージシャン仲間がいますけど、少し前は10歳上のミュージシャンと話が合ったし、セッションをしていても阿吽の呼吸を感じることが多かったんです。それは僕がジャズを聴き始めたときと10歳上のミュージシャンのみなさんがジャズを聴き始めた時期が重なっていたからだと思うんです。
──石若さんが早熟な分、10歳上のミュージシャンに同世代感を覚えていた。
そういうところがありましたね。
──今はそれこそAnswer to Rememberに直結している部分でもあると思いますが、石若さんの周りにいる同世代のプレイヤー、コンポーザー、プレイヤー、シンガー、ラッパーの多くはクロスオーバーかつエクスペリメンタルな感覚を持っている音楽家だと思うんですね。そこに同世代の共時性を感じてるのかなと思います。
そうですね。Answer to Rememberをやってみて、みんなやりたいことが共通している部分が多いなと思いました。どの世代にもあると思いますけど、不思議な感覚がありますね。
──現行のブラックミュージックやジャズ、あらゆるビートミュージックをオンタイムで享受し昇華しているし、それは世代的にインターネット、特にYouTubeの影響もすごく大きいのかなと思うんですけど。
それはめっちゃあると思います。やっぱり動画サイトの普及はすごかったですね。2005年とかかな? 中学生のときにMyspaceを開いたんですよ。そこでどんどんアーティスト同士の繋がりも生まれて。あとはiPodも大きいかもしれないですね。
──ああ、たしかに。
僕らの世代はPHSからガラケーになって、そこからiPhoneの最初のモデルが出てという流れを踏んできたんですけど、物心ついたときから携帯も発展してる感じがしますね。
──ガジェットの進化は大きいですよね。
そうですね。そこに音楽も付随しているというか。
──たとえばヒップホップでもトラップをオンタイムで享受できるのもそうですよね。ビートを同時代のものとして共有できるのはすごく大きいと思います。
そう思いますね。それこそYouTubeでもいろんなビートを見られるし。すごい時代になりましたよね。僕が小学生くらいまでのときはCDで新譜を買ってクレジットを見て「このドラマー誰だ!?」って調べるって感じだったけど、今はすぐに調べられますもんね。
■今の東京でこういう音楽が鳴ってるということを、もっと自然に海外と交換できるようになったらいい
──下の世代のプレイヤーとも交流があると思うんですけど、やっぱり新しいうねりみたいなものを感じますか?
感じますね。面白いのが、僕のちょうど10歳下のミュージシャンたちが今熱くて。今、18歳くらいのいいジャズドラマーがたくさんいるし、彼らからも新しいムーブメントが絶対に生まれると思います。そのときは僕も30代の終わりくらいになってるかもしれないし、がんばらなきゃって常に思ってますね。
──同世代の同志、戦友という意味ではKing Gnuの常田大希氏の存在が大きいと思いますか?
そうですね。彼はクールに見えるかもしれないけど、ものすごく愛のあるやつで。大学生のときに出会って、クラシックを一緒に勉強してるけど、聴いてる音楽が他の学生とは全然違うところですごく盛り上がって。それで夜中まで遊ぶようになって。最初から縁を感じていたんじゃないかと思います。あと、大希は当時からやりたいことがはっきりしていたんですよ。今それを全部有言実行しているなと思います。
──King Gnuの前身であるSrv.Vinci時代をともにして、今また常田氏の別プロジェクト、millennium paradeを通して音楽を濃厚に共有していると思いますが、このスピード感はどんなものですか?
一緒に演奏しなくなってからもよく会って遊んでたんですよ。一緒に演奏できなくなったのは、タイミング的に大希から「来年こういうふうに動いていこうと思ってるんだけど」って話を聞いたときにはもうすでに僕のスケジュールが埋まっていたからなんですよね。定期的に焼肉を食いに行って(笑)、大希から「(King Gnuを)4人でやることになってさ」という話も聞いていたし。一緒に演奏せずとも焼肉に行ったり、飲んだりしていたのでそんなに距離感はなかったし、millennium paradeに関してもまだDaiki Tsuneta Millennium Paradeという名義でやってたときから僕は全部参加して叩いていたので。今、millennium paradeは前にライブでやっていた曲をリアレンジしたりしていて。それもすごく楽しいですね。
──たとえば石若さんは海外で言えばグラスパー周辺やLAビート周辺もそうだし、一昔前だったらソウルクエリアンズやRHファクターのようなミュージシャンたちのコミュニティが大きな磁場になっていくダイナミズムにも意識的だと思うんですけど、やはりAnswer to Rememberやmillennium paradeの動きによって、日本の音楽的な土壌をどんどん豊かなものにできたらという希望も持ってますか。
それは思いますね。でも、それって「俺たちでなんとかしなきゃ!」という危機感ではなくて。この前、五十嵐一生さんという素晴らしいトランペッターがいいことを言っていたんですけど。北海道にはよく薪ストーブがあるんですけど、中でボォー!って燃えてるじゃないですか。冬場はそれで暖を取って。彼は「その火が俺たちなんだ」と言っていて。そこに暖まりにくる人たちがお客さんだったりサポートしてくれる人たちで。「だから、俺たちはずっとここで燃えてればいいんだ」と。
──ああ、名言、至言ですね。
そういう感覚かもしれないですね。なんとかしなきゃというよりは、俺たちは自然に燃えてるという。
──その火の粉が海外にも飛び火していったらいいし。
そうですね。今の日本で、今の東京でこういう音楽が鳴ってるということを、もっと自然に海外と交換できるようになったらいいですね。ジャズの面でも今の日本の東京でリアルタイムに鳴っている音がもっと知れ渡ったらいいなと思ってます。そのためにはまず俺たちが積極的に海外に出てライブしたいというビジョンも持ってます。
取材・文=三宅正一

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