古舘伊知郎が6年ぶりの「トーキング
ブルース」を語った ~ 自身初の無観
客トークライブで「新たな“免疫”を
得たい」

「喋りのプロフェッショナル」古舘伊知郎がマイク片手に2時間、怒涛の勢いで喋り続けるという、古舘伊知郎でしか為し得ないトークライブ『古舘伊知郎トーキングブルース』が今年(2020年)、6年振りに復活する。当初、通常の舞台公演として開催予定だったが、コロナ禍により、止む無く延期。ただ、「こんな今だからこそ語りたいことがある」という本人の強い思いにより、初の配信限定の無観客ライブとして開催されることが決まった。2020年8月14日(金)19時より、イープラスの配信サービス「Streaming+」を通じて日本全国どこからでも視聴が可能となる。
公演本番が迫る中、古舘に現在の率直な心境を聞いた。

■トークの縦軸は“コロナ禍”
ーー久しぶりの「トーキングブルース」となりますが、何故この時期に開催しようと思ったのでしょうか?
僕も65歳になりまして、喋る仕事のみで43年以上生きてきました。また報道番組のニュースキャスターというお仕事も12年やり終えて、今の自分にあとは何ができるだろうと。自分の欲望としてはやはり喋る仕事で人生を終えたい、というかむしろ喋ること以外で何があるのという思いもあるんですよ。自分をそぎ落として、さてそこに残るものは?……それが「トーキングブルース」だと思ったんです。
「トーキングブルース」は、報道番組をやる際に一度休止したのですが、番組が始まって10年目に1回だけやらせていただきました。古舘プロジェクト創立30周年という記念の年だったので1日だけ。贅沢なライブでした。
その後、報道番組も終わり、時間が少し出来たので「戯言」というトークライブを小さいライブハウスでちょいちょいやらせていただいたのですが、それだけでは我慢ができなくなって(笑)、今回「トーキングブルース」をやろうということになったのです。
でも、よく考えると「トーキングブルース」ってタイトル、生意気じゃないですか? 「トーキングファンタジア」くらいのユルさがあっても……あ、別に“ファンタジー”がユルいという訳ではないですよ! 他にも「トーキングノスタルジー」とか「喋る舌先の“ALWAYS 3丁目の夕日”」とか……(笑)。
でも「トーキングブルース」ですからね。生きる上で人には必ず悲しみが纏ってくる。悲しくない人生なんてある訳がないんですよ。それを喋りで面白おかしくやろうって言うのはなかなか難しいんです。でも、それを苦しみながらも敢えてやるというのが、僕の挑むべきことなのだと思っています。
――今回の喋りのテーマはもう考えていらっしゃいますか?
しいていうならば、やはり“コロナ禍”じゃないかと。ただトークライブですから、ひとつのテーマでずっと続けるよりも話が前後左右に“散る”こともアリかと思っています。「何よ、おまえ、脱線してるんじゃないか?」と思わせているうちに、また「本線」に戻る、そういうのがトークライブの醍醐味だと思うんです。そんな中で、やはりトークの縦軸は“コロナ禍”以外考えられないなって思います。
例えば、昨年の12月、或いは今年の1月に戻れるなら、どんな心構えを持ちますか?と言われても詮のない話ですし、1月段階で一般人として政府にどんな物言いが出来たか、また行政も何が出来たのか……すべてが二度と戻れない状態で“コロナ禍”に突入しちゃいました。だから少なくとも今、無観客でも無理やり「トーキングブルース」をやらせていただくなら、やはり“コロナ禍”のことを喋るのがいいんじゃないかと。面白い話も、そして一歩踏み込んだ深い話も、コロナに纏わることも纏わらないことも話していきたいですね。

■伝説の「トーキングブルース」が出来るまで
――「トーキングブルース」そのものについて、いろいろ聞かせてください。まずは「トーキングブルース」には「台本」はあるのでしょうか?
台本はありません。が、自分の喋ろうとしていることを整理するため、そして頭の中に叩き込むために、A4サイズくらいのコピー用紙に大昔の羊皮紙の重ね書きのようにメモしていくんです。例えば“コロナのことはこう言えるんじゃないか?”“政治にはこんな注文を付けられるんじゃないか?”などなど……。書き続けていくといつしか紙いっぱいになっているんです。それから今度は赤ペンに持ち替えて書き、次はブルーのボールペンで、さらにグリーンのボールペンで、と派生する物事を重ね書きしていきます。
お芝居とは違ってトークライブですから近々のネタも大事、すると古いネタは沈んでいく。それから、おおまかですが、喋る順番を決めるために、違う色のペンを探してきて、それまでに書き続けたメモ書きに1、2、3……と仮の順番を記していく。こういう、ちまちました手作業って楽しいんですよ。お米に般若心経を書いていくみたいな(笑)。そういうのが2、3枚出来ると、それがトークの元になって「さあ、喋るぞ!」となるんです。
昔は台本を作ったこともありました。構成作家さんたちと一緒に合宿をしたことも。まるでアーティストのレコーディングみたいにね。作家さんにパーツ、パーツを書いてもらったのをまとめると、ものすごく分厚い台本になって。
――それらはどこかに保管しているんですか?
ええ。分厚い台本も、そしてたくさんのメモ書きも全部大事に保存しています。以前、人間の脳をテーマにした時のメモ書きは、百数十枚になりましたね。さすがにこれはブランディングしたいと思って養老孟司先生に監修をお願いしようと、ご自宅まで訪ねました。素人のくせに脳のテーマに迫るんじゃねえ、と言われそうですが“養老ブランド”のお墨付きがあれば心強いと思いまして。メモ書き百数十枚を持っていって「いかがでしょうか?」と尋ねると、先生ったら全然読んでくれなくて(笑)。でも、申し訳ないとでも思ったのか、ペラ、ペラ、ペラと3回めくって……その音を今でも鮮明に憶えているんですが、「はい、わかりました。OKです」って(笑)。
それは、うちの事務所を挙げて総力戦で作ったものでしたが、「いかんせん素人が書いたものなので、間違ったことが書いてあるかもしれません」と言うと、先生は「人間社会は誤解で成り立っている。私は女房と30数年連れ添っているが、相変わらず誤解を生んでいます。そのように、人間なんて分かりあえるものではないから、間違いがあっても問題ではない。さあ、飯を食いにいきましょう!」って(笑)。そんな忘れられない思い出も多々あるので、全部保存してあるんですよ。
――そのメモ書きというプロットのなかには、脱線する話もメモられているんですか?
もちろん! ここからどう脱線させて、「おいおい、大丈夫か?」とお客さんにヒヤヒヤしてもらって、いいタイミングでプールサイドに手を付けて水から上がって本線に戻すような展開プランもメモしています。
でも時には、本当に脱線してしまうこともあるんです。「トークライブ」をはじめてから30分後くらいに出そうと思っていたネタを、いきなり開始早々出してしまったこともあって。いまどきのネタもやりたいので「今日の〇〇新聞、読みました?」って話を振ってしまうと、そのひとネタで用意していた他のネタとの連結が崩れてしまい、45分くらい後に用意していたネタを先に出してしまうこともあるんです。僕としては最終的に全部のネタを消化する自信はあるのですが、ネタに合わせてライティングを準備してくれたスタッフさんから後でかなり怒られます(笑)。シリアスな話をするパートだったので照明が徐々に落ちていく中、新聞ネタでもり上がっちゃったもんですから。
まあでも、このメモ書きは、僕が死んだら、すべて棺に入れて燃やしていただきたいですね(笑)。
――今回は「トーキングブルース」始まって以来、初の無観客ライブとなります。目の前にお客さんがいない中でのトークライブは、期待と不安でいったらどちらが強いですか?
もちろん不安のほうが大きいですね。お客さんはPCやスマホなどで視聴チケット料金3000円を払って観てくださっていると思いますが​、ずっと観ていてくれなんて無理強いは出来ないじゃないですか。僕、平気で2時間くらい喋ってしまうから。視聴してくれたお客さんであっても、なんらかのきっかけで離脱してしまうんじゃないかと。「そこで観るのを辞めるんじゃない!」って声をかけたいですが(笑)、目の前にお客さんがいるわけではないから、強制力を発動することもできません。だから、厳しい現実も思い知らないといけないでしょうね。コロナのおかげではないですけど、「トークライブ」で、また新たな“免疫”もしくは“抗体”を得ていかないとね。

■古舘伊知郎の人生を変えた人々
――話はやや脱線しますが……。
ええ、いくらでも脱線してください(笑)。
――ありがとうございます(笑)!「古舘伊知郎」という人間が誕生し、今の存在になるまでに数多くの人々に出会ってきたかと思います。そのなかで特にご自身に大きな影響を与えた人は?
うわー、沢山いるんですけど、何人まで名前を挙げていいですか?
――では、厳選して三名様にてお願いします。
わかりました。もしもまた明日同じ質問をされたら違う人の名前を挙げるかもしれませんが、今この時点で浮かんだのは景山民夫さん、みのもんたさん、そして僕の父親です。
まず、景山さん。僕が26歳くらいでプロレスの実況を中心に局アナとしてスポーツ関連の仕事をしていた頃、「宝島」という、当時月刊で発行されていた雑誌をたまたま買いました。自分の車を運転してテレビ朝日に出社する時、その「宝島」を車のダッシュボードに置いて、国道17号、白山通りの千石あたりの信号待ちでふと「宝島」を手に取ってぱっと開いたら「古舘伊知郎アナウンサーは天才である」というタイトルで景山さんが8ページ書いてくださったコラムが目に入りました。「彼(古舘)はこういった」とか「彼の言葉をこう分析する」とかね。僕、嬉しくて、ちょっと車を路肩に停めましたよ。「俺、認められているんだ、世界中が俺に微笑んでいる」って! もし僕がウッディ・アレンだったら、きっとそういう映画を撮ってますよ。「世界中がアイラブユー」ってのを(笑)。車を停めて貪るように読んで、しまいには涙が止まらなくなって、もう記事の中身が頭に入ってこないくらいでした。そこから1ヶ月以上、お守りのようにその雑誌をずっとダッシュボードの上に立てかけていました。まるでタクシーの運転手さんが「マル優」という優良ドライバーの証を車に貼るかのごとく。本当にあの時の喜びったらなかったですよ。
次にみのさんは高校、大学の10年先輩。僕が中学生の頃、みのさんがDJをするラジオの深夜放送に大ハマりしたために、成績がガタ落ちして、希望していた高校にまるで入れなくなったんですが(笑)、みのさんの喋りを聴きながら「こういう喋り手になりたい」と思ったのがすべての始まりだったんです。その後アナウンサーになってからもみのさんにストーカーのように付きまといました(笑)。みのさん流の艶っぽい喋りは、タイプが違う僕には出来ないんですが、それでもどこかで真似していましたね。
最後に親父について。親父に劇的に何かを変えてもらった訳ではないんですが、自分と比べたら圧倒的に男気があって、優しくて、常にどこかで守られているという感覚がありました。と同時に、とても親父の真似はできないというコンプレックスばかり抱いていました。親父が死んだときにまざまざと感じたんです。「この人はこういう人生を歩んできたが、俺はその逆張りで、決してこの人のようには生きられないから、違う職業を選び、違う人生を歩きたい、とずっと思いながら生きてきた。この人に反発もしたし、コンプレックスも抱いた。『伊知郎は気が小さいから』と何度も言われてきたが、『ああ上等だ! だったら俺は絶対違う人生を歩いてやろう、あんたが硬派な生き方なら俺は軟派な生き方をしてやろう』」って……。「あなたのおかげでこっちの道を歩かせてもらいました」って今でも強く感じています。

インタビューではコロナ禍にまつわる政治や経済、文化など多岐にわたる話が飛び出したが、ひょっとして「トーキングブルース」の本番でも使われるかも……と思えるネタも多々あったので、ここではあえて割愛する。気になる方はぜひ本番の配信にてお楽しみを!
取材・文=こむらさき

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