あの名作の“後日談”、『人形の家
Part2』演出の栗山民也に直撃インタ
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世界演劇史上に残るイプセンの名作『人形の家』に、あっと驚く“後日談”が現れた。アメリカ人劇作家ルーカス・ナスが手がけた『人形の家 Part2』がその作品だ。2019年8月9日より紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで上演される(9月1日迄)。日本初演の演出を担当するのは栗山民也、『人形の家』のラストで出て行った家に今回帰って来ることとなるヒロイン・ノラには、栗山の指名で永作博美が扮する。このほど、栗山に作品への意気込みを聞いた。
(撮影:尾嶝 太)
――あの『人形の家』に“後日談”が登場してしまいました!
 おもしろいよね。僕は、これ、『人形の家』から15年後に設定したのが、ルーカス・ナスの英断だなと思って。ちなみに今回、出演者に那須凜もいて、日米で同じ苗字ってなかなかないよなと(笑)。15年後というのはつまり、ノラとトルヴァルの夫婦も含めて、みんなが成熟したところにもっていったわけで。しかも、設定が未来に向かって行っているということは、今現在を生きる僕たちと同じところで響き合うことが可能なんだよね。そこが上手いなと思って。稽古を集中して見ていると、あれ、これ現代劇じゃないって思うところがあって、それがきっとナスの狙いなんだろうなと。イプセンが『人形の家』を書いたのは19世紀末で、当時の社会通念をどう乗り越えるか等がテーマだったりして、イプセン自身は別に女性解放問題を書いたわけではないって自分で言っていますけれども、社会はそうは取らないよね。女性解放の方で有名になっちゃった作品だから。それを逆手にとって、じゃあ今の社会はどうなんだというところにリンクさせたのが、ナスのすごくラジカルでおもしろいところだと思う。
 劇的な物語があるわけじゃないんですよ。普通の演劇って物語を見せるとかってあるし、小劇場とかだと演劇的な仕掛けっていうものを作家が企んだりするでしょ。そんな仕掛けもまったくないんです。だから、作り手としてはどこに拠り所を求めていいんだろうかという芝居なのね。生活空間としてはもう使われていない部屋で、二時間近く芝居が展開する。いろいろなものが排除された空間で、そこにあるのは「家族の対話」のみなんです。それだけは連綿と残っている。それが、ナスの一番書きたかったことで。装置の変化や時代の変化より、とにかく、嘘もあり、真実もありというぐじゃぐじゃの家族の対話を、よくこれだけ書いたなと。『人形の家』でそこまで届かなかったことを、少し成長したキャラクターに置き換えて、お互い意見をぶつけ合うという。
 何か今、日本全体、対話はいらないっていう風になっているでしょ。ヨーロッパ的な思考で言ったら、Aという価値観があって、Bという価値観があって、ぶつけ合ってそこにCという新しい価値観を生むことが大切なのに、日本人はそうじゃないよね、特に今は。自らを小さい世界に閉じ込めていく。昔なんて、稽古終わって「みんなで飲みに行くぞ~」って言ったら「はい!」って行って、先輩が何を言うかを聞いていた。今は「お疲れ様~」って、コンビニでサンドウィッチ買って、家帰ってネットやってるわけでしょ。自分たちが傷つきたくないがために、ぶつかり合いを極度に避ける。ケンカしない、恋をしない、対話しない。自らの壁で自分を守っちゃうわけだよね。そういう社会に対して、こういう芝居ってやっぱりものすごく必要だなという気がして。明らかに、日本人の草食性とは全然違うからね。やっぱり、食い合っているから。今はそれに憧れるわけじゃない?
 こういうぶつかり合いがあって初めて人間を知る、世界を知るということがあるわけで。香港のデモを見ていても、あいちトリエンナーレの結末だって同じこと。今の日本は誰も立ち上がらない。それは、大人がだめだからですよ。大人が真実から逃げちゃうから。平気で嘘をついて、それで当たり前っていうフェイクの時代になっちゃってるからね。とても怖いよね。
――そういう意味では、ぶつかることを恐れない人々が登場する作品ですね。
 それとね、井上ひさし作品を演出しているとよく思うんだけど、人間ってすべての瞬間に選択をしているわけですよね。かくありたいと思う、だけど、かくあってしまったっていう、人間って必ずそういう選択があって後悔をするところがある。出会いや別れがあり、選択がある。自分で言うのも何だけど、僕はそれをものすごく大事にしている演出家なんです。物語に乗っからない、乗っかっちゃいけない、仕掛けにも乗っかっちゃいけないと思っていて。人生のすべての瞬間は人間のその瞬間の選択によって成り立っているわけで。この一言をもし言わなかったら、この二人、結婚していないとか。だから、この作品においても、最後にノラが今度はどういう判断をするかには、僕はあまり興味がなくて。彼女は何をしに帰って来たんだろうというところも含めて、どこでまたドアを開けて出て行ってしまうかもわからない、その選択肢の中でずっと揺れているドラマが描けたらいいなと思って。それが、僕たちの人生と同じで、一番リアリズムなんじゃないかなと思うんですよね。
 単にセリフが多いというだけじゃなくて、アメリカ人の論理性というか、結論を言ってから説明するというのは日本人にないところだものね。日本は省略の美とか言うけど、ただ何も考えていないだけなんじゃないかって(笑)。そうやって面倒なこととか排除していくでしょ。異物とぶつかり合う、変化を楽しむ、それが僕たちにはもっと必要だと思うから、こういう芝居に飢えるんだな。役者は大変ですよ。永作博美なんてずっと引っ込めないもの。
(撮影:尾嶝 太)
――永作さんのノラは、栗山さんのご指名とか。
 これ、雰囲気でできる芝居じゃないからね。「何かしら」みたいなこと言ってる感じの雰囲気女優はまずだめだよね。乗り込んでくるわけだからね。前向きで、ベクトルがしっかりしている、そのおもしろさですよね。娘に会うつもりなんか全然ない。それが、乳母のアンネ・マリーの提案で会うことになる。アンネ・マリーも、ノラが、「私、お金持ってるから」と言った瞬間がらっと態度が変わる。その辺の動物的好奇心、僕は大好きだな。理屈とか美談じゃない、美しい話じゃないんだな。19世紀末、日本でいうと明治でしょ。河竹黙阿弥の世界ですよ。「万事金の世の中」っていう。経済というものが入ってきて、人間がどんどんすべて絡めとられていく。世の中がベクトルを変えて、今でもその方向に走り続けていっている。そういう意味でも、現代を見据えた芝居で、おもしろいな。
――ご自身で『人形の家』のその後を想像されたりは?
 あまりしないかな。イプセンって好きな作家なんだけど、『人形の家』は演出したことがなくて。去年、寺島しのぶで『ヘッダ・ガブラー』を演出したんだけど、イプセンって、ベートーヴェンとかもそうだけど、作品に自分を投影するんだな。60過ぎて、18のエミーリエって女の子を追いかけまわして、野鳥のようだとか、何だとか言って、それをヘッダ・ガブラーに託して正体不明の女を書いたわけだから。ノラもそうなんだよね。作者がもっているときめきみたいなものが僕はとても好きなんだけど、それは基本的にわからないものだから。ぶつかり合うことが必要であると同時に、現代って、わからないことを了解することがすごく必要なんじゃないかと。わからないことを、わからないと言葉に出して言う勇気が必要だし、それはとても素敵な行為だと思っていて。
 イプセンの作品に出てくる人たちって、わからない、わからないと言うし、それが言葉になって、相手に対して問い質す、それに対して答えるという形でドラマが進んでいく。「わからない」というところに価値観の違いがあって、一生わかり合えないわけでしょ。でも、ぶつかるという、その無意味な繰り返しを何度も重ねていくと、あるときそこに新しい意味が生まれると思うから人間は闘うわけで。18歳の女の子を追いかけ回していたイプセン自身が感じていたであろう自分のわからなさ、そのときめきが僕にはすごく大事で。モーツァルトとか、音楽家もみんなその気持ちで音楽を書いていると思いますよ。世界がわかったと思った瞬間、おもしろい芸術なんて絶対生まれないような気がするな。そんなものを披露されたって全然おもしろくないでしょ。迷い、悩み、惑う、そういう登場人物が僕は好きなんだな。
――お稽古はいかが進行中ですか。
 いい感じだけど、役者の重荷が大変だな。その言葉が全部自分のものになって、それで語れる。そこに行くまでには繰り返ししかないわけで。理解するとかじゃなくて、繰り返して繰り返して、無意識に変わったときにポロっと出せるようになる。永作はね、「わからない」っていう感じが、彼女の場合、とってもかわいいんだ。普通、女優って何だか、不可解な、無意識な顔をあんまり見せないんだよね。基本的に、わかったように演じるから。僕のダメ出しって長いんだけど、「あぁ! わかりました! ありがとうございます」とか言われたりして。ちょっと待って、わかったって何がわかったの。わかったってなった瞬間、その演技は嘘になるでしょ。何だろう、何だろうと思って言葉を吐く。それを持続させていく。それが、俳優にとって一番難しいことだろうと思うんだけれども、すべてを、そこで初めて生まれる瞬間にしないといけない。
 基本的に、人間って、何かを問う動物だと僕は思うから。自分にとって不可解な問題があるからこそ問うわけで、その好奇心みたいなものから言葉を発した瞬間が素敵な瞬間だと僕は思う。何がその人の心を動かしているかっていう。そういう意味でも、ドラマって、瞬間瞬間で紡いでいくものだなと。そうすると、ストーリーで、え、こんなことになるんだ? という驚きがより強いものになっていくと思うんだ。どう驚かせようかと企んで演出するよりは、そういった瞬間を忠実に見つけていく作業をしたいと思っていて。
――それにしても、ヒロイン・ノラが最後に出て行くという選択をするところが、『人形の家』の初演当時は衝撃をもって受け止められたんだろうなと。
 でしょうね。明治時代の女性にそんな権利はなかったわけだから。夫をおいていくのもさることながら、子供をおいていくというところがね。今回の作品でも、ノラが一番弱いのはそこなんだ。子供のことを言われた瞬間に、精神的にううっとなる。敢えて伏線で何度も振っておいて、次女が突然パーンと入ってくる、あのおもしろさがね。そして、明らかに距離感があるという。ほとんど現代劇、今の世の中だよね。こういう作品をお手本にして、日本でも、みんなで論じ合うという方に行きたいよね。それは何も堅苦しいことじゃないんだけどね。
――今回の作品では、出て行かれた夫の気持ちも描かれているのがいいなと。
 そうなんだよね。それでいながら、自分もまだ権威に凝り固まっているっていうね。それも、社会が作り上げた通念なんだけど、そこがおもしろいところなんだよね。井上ひさしの書くものもそうでしょ。権力者がそのことに気づいていないという喜劇、その悲劇ですよね。相手の気持ちになって言おうとすればするほど距離が離れていくという。大きな視点でいうと、時代の悲喜劇でもありますよね。
――乳母アンネ・マリーも大活躍です。
 乳母が二場面も占領しているからね(笑)。イプセンだったらこんなに登場させない。イプセン作品の女中って、ちょっとだけ出てきて、実は全部見ているみたいな感じで。ただ通過するだけで、次に入ってきたときには、全部知ってるじゃないか、みたいな(笑)。
――本番の舞台がますます楽しみになってきました。
 どちらに転ぶかわからない物語の、その場その場を受け取ってほしいなと。敢えてサスペンスを書こうだなんて、作者は全然思ってないと思うの。だけど、人間のリアルな生活ってこうなんだよということを提示している。その過程を鏡に映し出して、自分と比較して観る、その楽しさがある。家族の間でこんなに語り合うことの健康さもある。今の若い世代にも、とにかく、わからないことがあったらじかに話しなさいって僕なんか思うんだよね​。
(撮影:尾嶝 太)
取材・文=藤本真由(舞台評論家)  撮影:尾嶝 太

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