【連載】Vol.075「Mike's Boogie St
ation=音楽にいつも感謝!=」

レッド・ツェッペリンを蹴ったテリー・リードが久々の来日公演。素晴らしいLIVEを我々に披露!半世紀以上に亘ってロックし続けるテリーにインタビュー敢行。ストーンズやツェッペリン、パープル、ジミヘン、ECとの交友も聞いたぞ!!
1960年代中期から後半にかけテリー・リードの名前はローリング・ストーンズ・ファンの間では結構知られていた。と言うのはストーンズのツアーでサポーティング・アクトを務めていたからだ(ジェイウォーカーズとソロ)。確か日本盤レコードもリリースされていて、当時東芝のディレクターだった故・石坂敬一さんとストーンズの「Empty Heart」とテリーの話しで大いに盛り上がったことを思い出す。71年にシングル・カットされた「バン・バン/ティンカー・テイラ」(東芝音楽工業/OR-2798)のライナーノーツは僕が書いた、これは勿論石坂さんからの依頼だった。
▲JPシングル「バン・バン」 from Mike’s Collection

テリー・リードは “レッド・ツェッペリンのリード・ヴォーカルを蹴った男”として広く伝説?として知られ、またディープ・パープルにも誘われたことがあるという。彼はローリング・ココナツ・レビュー・ジャパン・コンサート1977で初来日している。日本発売にあたり僕もちょこっとお手伝いさせてもらった同名のCD14枚組にテリー&デヴィッド・リンドレーとのデュオで「All I Have To Do Is Dream」「Foggy Dew」の素晴らしい2曲が収録されている。
▲CD14枚組『ローリグ・ココナツ・レビュー・ジャパン・コンサート1977』の“DISC-7”のバック・カバー from Mike’s Collection

そんな経緯でテリー・リードは僕にとって思い出深い、そしてとても気になる英国音楽家の一人だ。5月30日午後Billboard Live TOKYOでのライヴ前の慌ただしい中、僕はテリーにインタビューを行った。
Mike:貴方は1949年イギリス、ハンティンドン生まれ、故郷はどんなところでしょうか?
Terry:僕は1949年にイングランドのハンティンドンで生まれたんだ。ハンティンドンはとっても古い町で日本で言うと武士の時代の西暦1500~1600年頃まで遡るかなぁ。ただ刀などなかったので、日本とはずいぶん様子は違うよね(笑)。 ヘンリー8世とかオリバー・クロムウェルなど全てがこの地域を拠点にしていたんだよ。大きな学園都市ケンブリッジの近くにあるんだ。ケンブリッジはトリニティ・カレッジやキングス・カレッジがあり音楽や芸術も盛んだし、そうそう、アイザック・ニュートンはトリニティ・カレッジに通っていたんだよ。一帯はとても美しいところで、まるでウェディング・ケーキのようなんだ。ルネサンスの下火に伴い、聡明なヘンリー8世は音楽家や建築家をヴェニスからここへ招き入れ、大学などの大きな建物を全て建築させたんだよ。たいへんな切れ者だよ、彼は。何よりもここは美しいところで、蛇行する河川には美しい木々が沢山あるんだ。僕の故郷は、そのハンティンドン側の小さな村で、辺鄙だけどとっても平和な田舎町なんだよ。「自分の子供時代は嫌いだ」という人もいるけど、私はそれとは違って子供時代が大好きさ。多くの果樹園がその村にあって林檎や梨やサクランボなどの果物が沢山育っていて、そりゃあ素晴らしかった。最高の子供時代だったよ。
M:幼い時から音楽に親しむ環境があったんですか?
T:僕にはいつも音楽があったんだ。そしてどういった訳だか、僕はいつの頃からか音楽人間だったんだよ。あの小さな村にあったのは当時トランジスター・ラジオだけで、大きなステレオなど勿論なかったけど、いつもラジオはずっとかかっていたんだ。まだ小さな僕は流行音楽(ポピュラー・ミュージック)を聴いてそれをスポンジのように吸収していったんだ。どんな歌も覚えてしまう僕の能力を母は分かっていた。それは5歳の頃で、これが音楽との触れ始めなんだよ。
M:貴方がロックに夢中になったのは何時頃からなの?またティーンなってどんなアーティストから一番影響受けたのか教えてください。1950年生まれの僕はビートルズから直ぐローリング・ストーンズに…(笑)。
T:まだビートルズが出現する以前、ティーンエイジャーだった頃、そうだ!面白いことに気づいたよ。エルヴィス・プレスリーは実は一度もイギリスに来たことがなかったんだよ。パーカー大佐がイミグレーション絡みで問題があったとか言われてたけど、本当のところは分からないんだよ。バディ・ホリーも確か一度もイギリスには来てないはずだ。僕が10代になった頃ビートルズ、ストーンズ、アニマルズ、サーチャーズらが登場し、そこいらじゅうにロックが溢れるようになったんだ。当然自分も音楽をやりたいと思うようになって、バンドを組んだんだ。ザ・レッドビーツというバンドを組んで、パブやマーケット・プレイスなんかで演奏したんだ。主にビートルズやヤードバーズらのヒット曲を演奏したんだ、そうしないとオカネ貰えなかったからね(笑)。
M:15歳でプロになった切っ掛けは?
T:当時バーやパブに出向いてカバー・ソングを演奏してたんだけど、全ては生活費を稼ぐためだよ。親父は家賃も払ってたし、車のガス代も必要でしょ(笑)。 その後ピーター・ジェイ&ザ・ジェイ・ウォーカーズに加入、中学校を卒業して親元を離れてロンドンに行ったんだ。ちょうど京都から東京に行くようなもんだよ(笑)。
M:ピーター・ジェイ&ザ・ジェイ・ウォーカーズの一員としてどんな活動したんですか?そう言えばストーンズの1966年ロイヤル・アルバート・ホール・ライヴではオープング・アクトを務めたとか。その時のエピソードがあれば一つ二ついいかなぁ?
T:ピーター・ジェイ&ザ・ジェイ・ウォーカーズはロンドンを拠点にして活動、レコーディングをしてはライヴを頻繁に行っていたんだ。当時のピーターは音楽業界ではカオが利き、以前ビートルズとツアーしたこともあったんだ。僕がバンドに加入して数か月後のある日ロンドンのマーキー・クラブで演奏していると、イアン・スチュワートという男が僕らの傍にやって来て、「観客の中にミック・ジャガーとキース・リチャーズがいるゼ!」と言ってくるんだ。本当かよ?と訊くと、イアンは、「ストーンズと一緒にツアーしないか?」と言ってきたんだ。そりゃやるよ!と即答さ!!それでツアーはいつから始まるんだい?「明日だよ!」(笑) 明日って??ツアーはどこから始まるんだい?そうしたら「君たちは明日ロイヤル・アルバート・ホールに来てくれさえすればいいんだから」(笑)。 冗談かと思ったよ。このことを知らせようとすぐ田舎の友だちに電話したんだ。そうしたら何が起きたと思う?「明日からストーンズと一緒にツアーするんだぜ!」と誰も信じようとしてくれないんだ。そんな事で初日のロイヤル・アルバート・ホールが始まったら大騒動だよ!ビートルズみたいに叫び声を上げる女の子たちに溢れ、あまり音楽を聴くという感じじゃ無かったけど。最後は「Satisfaction」で閉演するんだけど、ここでわざと騒動を起こさせるんだよ。彼らはそう仕組んだんだ。だってこれがニュースになって大いにツアーの宣伝にもなるからね(笑)。その様子をテレビで観ていた田舎の友だちは、「おい、あれテリーだよな??」と騒いでいたらしい(笑)。これでやっと僕たちが彼ら一緒にツアーすると信じてくれたんだぜ。ローリング・ストーンズ映像の中に僕らも映っていたんだから(爆)。
M:当日はどんな曲を演奏しましたか?
T:確か「Funny How Time Slips Away」。ウィリー・ネルソンの曲だけど、当時それとは知らなかったんだ。
僕たちはジョー・ヒントンのヒットで知ったんだ。それとオーティス・レディングの「Shake」と「Try A Little Tenderness」。それ以前はインストゥルメンタル・バンドだったんだけど、ストーンズと一緒にやった時はホーン・セクションもいて、僕がシンガーでいたからこういった曲を演奏出来たんだ。
M:その後もソロとしてストーンズのオープニング・アクトを務めてますよね?
T ; 1969年にストーンズとツアーした時は、僕のマディソン・スクウェア・ガーデン公演を録音したテープをミックが送ってくれたなぁ。そのマスター・テープは今でも自宅に保管してあるんだ。
M:確かクリームともツアーしてますよね?どんな気持ちで人気絶頂の彼らと接していたのかなぁ?またちょっとしたエピソードがあれば教えてください。
T:あれは1968年だね。エリック・クラプトンとは長年の知り合いで彼がクリームを結成した時、実はドラマーのジンジャー・ベイカーもよく知っていたんだ。そう、奴はヒステリックで面白い男なんだ。突然エリックが電話してきて「テリー、僕らと一緒にツアーしないか?」と言うので、そりゃ勿論OKと答えたさ!「フェアウェル・ツアーをやるんだけど」ということだった。メンバー同士既に上手くいかなくなっていて、口論も絶えなかったことを憶えている。
M :貴方は1968年にファースト・アルバムをミッキー・モストのプロデュースで完成させました。その時のどんな気持ちだったのかな?当時どのくらいの時間をかけて制作したのかな?『bang, bang,you’re TERRY REID』は今でも日本のコアなUKロック・ファンの間で人気ある一枚ですヨ。
▲CD『bang, bang,you’re TERRY REID』 from Mike’s Collection

T:たった10分で作った!冗談冗談。ハハハ。ミッキーは“ワン・テイク・マン”で、それが僕には良かったんだね。僕は3度演奏すればもうそれ以上はいいというタイプなんだ。僕らがファースト・アルバムのレコーディングに費やしたのはたったの4日、セカンド・アルバムは1週間ほどだったな。結構長時間だったなぁ~(笑)。僕はスタジオでツアーでバンドと演奏した曲を全て演奏してみたんだけど、これはアルバム・レコーディング用の楽曲ではなかった。
M:ジミー・ペイジからニュー・ヤードバーズ参加を誘われた話しが伝説になってます。この辺りは詳しく教えてくれませんか?またロバート・プラントをジミーに紹介したのは貴方だったんですか?
T:後のレッド・ツェッペリンとなるニュー・ヤードバーズへの加入の件かい。実のところ当時ジミーは色々な人に声をかけていたんだね。なぜ僕の名前が挙がったのかは知らなかったけどちょうど1969年のストーンズのUSツアーに僕は同行するところだったんだ。ジミーは僕のほかスティーヴ・マリオットやスティーヴ・ウィンウッドにも打診してたし、更に多くのシンガーに声がけしていたんだ。僕はそんな経緯から断ったんだけど彼にこう言ったんだ。「あのさ、ちょっと二人ばかり知ってるんだ」「何だ、その二人って?」「君は知らないだろうけど、ロバート・プラントとジョン・ボーナムっていう二人だ」「誰だいそれは?」「シンガーとドラマーだけど、一見の価値ありだよ。君がやってることにうってつけの奴らだ」「見た目どんな感じの奴ら?」「君よりイケてるよ!」ハハハ。僕は「会ってみるべきだよ」と言ったんだ。そこから彼らの伝説が始まったんだよ。僕たちシンガーは皆グループにいて、スティーヴ・ウィンウッドがスペンサー・デイヴィス・グループを脱退すると、直ぐにスペンサーは私にバンドに加入しないかと訊いてきたヨ。「ちょっと待ってくれ。自分とは違うタイプだよ」。当然スティーヴの曲は全部知ってるし、スティーヴからも「君がやるべきだよ」と言ってもらった。彼のことは大好きだし、イギリス史上最高のシンガーだと思う。そこで僕は一体何をすればいいんだい??(笑)彼の真似して歌うのかい??スティーヴはその後トラフィックを結成した訳だが、その頃のミュージシャンは皆色々と渡り歩いてたんだよ。
M:ディープ・パープルやクロスビー・スティル・ナッシュ&ヤングにも誘われたとか?
T:リッチ―・ブラックモアが私に連絡してきたことはあったけど、クロスビー・スティル・ナッシュ&ヤングには誘われなかった。元々グラハム・ナッシュは親友で、ホリーズの頃からよく知っていた。誘われたら加入したかもしれないね(笑)。 結成当時の彼らのリハーサルをニューヨークで見て、そのついでに2週間ほどうろついて、ジョニ・ミッチェルやジュディ・コリンズなんかとも一緒にいたんだ。
M:1969年のストーンズUSツアーではあのオルタモンタ・ライヴの悲劇があったけどその場にいたの?
T:一緒に彼らとツアーしていたけどが、オルタモントには同行しなかったんだ。ボストンの公演終了後、ホテルの僕の部屋を誰かがノックするんだ。ドアを開けるとキースが立っていた。「やあ、テリー」「何か用事でも?」「君は明日帰る予定だっけ?もう1公演あるんだけどさ」。ツアー中に既にトラブルが多発していたこともあって僕はオルタモントには行かないとストーンズ側に伝えていたんだ。オルタモンタはフリー・ギグながらギャラなど支払われるのは知ってたけど、それでも全く行く気が起らなかったんだ。キースも「本当は俺も行きたくないんだ」。結局キースはオルタモントに向かったんだ、ストーンズのメンバーだからね。僕はキースから説得されたけどオルタモントは断ったんだ。

M:ジミ・ヘンドリックスともツアーしてますね?20歳の貴方はその時どんなことを考えていましたか?
T:ジミは良い友だちだよ。彼のことはよく知っていたしね。一緒にツアーするのはジミのアイディアだったんだ。公演が沢山あるから一緒に来ないかと誘ってくれたさ!僕の家に泊まりに来たこともあるんだ。魅力ある男で、僕の人生で出会った中で恐らく最も才能あるミュージシャンだし、サイコーにいい奴だったよ。こんなことも実際にあったんだよ、イエール大学の廊下をジミと歩いていた時、パパラッチか何かが僕ら目の前に飛び出してきたんだけど、僕らはその時茶色の紙袋持っていて、(僕は)白ワインのボトルが入っていると思っていたんだけど、突然ジミが「この中身は何だろう?」と言うので「見てみなきゃ分からないよ」と僕が言うと、袋の中を見た彼がニッコリ微笑んでパパラッチのほうを睨んだのだ。ハッキリ憶えているけど、なんとあの中身は拳銃だったんだ!いつも多くの人がボトルをプレゼントしてくれたんだけど、こんプレゼントの時もあるんだよ(笑)。
M:1971年にミック・ジャガーとビアンカの結婚式に参列していますね。その時のエピソードを教えてください。その時ミックはスティーヴン・スティルス、ニッキー・ホプキンス、ボビー・キーズ、ドリス・トロイ、P.P.アーノルドらとセッションしています。貴方はミックらと演奏はしなかったのかな?
T:あ~、ミックとビアンカの結婚式の話しかい。凄いドレスだったんだ!(笑) ビアンカは下着を全く身に着けずシースルーだったからね!良かったよ!(爆)大勢の人が参列した。ニッキー・ホプキンスやボビー・キーズもいたな。僕らはその時にザ・フリューというバンド組んだんだ。僕とニッキーとジョー・ウォルシュとフィル・ジョーンズ。ジョーがイーグルスに加入する前。結婚式自体はよく憶えていないんだよ(笑)。多分ミックも憶えてないと思うよ。ワハハ。皆ギターを抱えて暫く突っ立ってたんだ。参列者にはブリジット・バルドーやサルバトール・ダリなど、まるでサージェント・ペパーのアルバム・カバーみたいな感じだったヨ。ポール&リンダ・マッカートニーと彼らの子供たち、エリック・クラプトン、ロニー・ウッドやロッド・スチュワートらもいて、皆同じバスに乗って一緒に歌ったんだ。自分の人生であんなの見たこと無いよ。面白い経験だった。
M :貴方は有名なフェスティバルにも多く出演されていますね。面白いエピソードなどがあれば教えてください。
T:僕は段々と大きなフェスティバルで演奏するようになったんだ。ウッドストックの直前に行われたアトランタ・ポップ・フェスティバルがいい例だな。69年のアトランタではジミが初めて「Star-Spangled Banner」を演奏したのさ。僕はその時トラックの上にいたんだ。ジミは事前に何を演奏するのか僕に教えてくれていたけど、一体どんなサウンドになるのか全く想像出来なかった。これは彼にとって伝説的なギグになったね。とても有名になったギグゆえにまるで昨日のことように憶えているよ。そしてウッドストックだ。皆ウッドストックのあるニューヨーク州に移動しようとしたけど、全員が辿り着けた訳じゃ無いんだ。実は州境でフリーウェイが封鎖されていると言うんだ。ヘリコプターのパイロットがカネ欲しさにそう言ってたんだけどね(笑)。 これが大きな混乱を招いたのさ。ジョニ・ミッチェルも急遽行くのを止め、僕も辿り着けなかったんだ。演奏予定していた20組位が現地へ行けなかったんだ。僕はパンナム・ビルの最上階にいて、ヘリコプターで行かせてくれとアピールしていたけどそれが叶わず、テレビで観るだけだった。その他多くのフェスティバルに出演、そう、ワイト島やグラストンベリーなどでも演ったよ。
M:その後アメリカへ移ったんですか?
T:1980年代にアメリカに移ったんだ。特にカリフォルニアが気に入ったんだ。その頃家庭も出来たので、ファミリーとゆっくり過ごすという楽しみを覚えた頃かな。
M:ミック・テイラーと何度もギグしていますね。彼とのエピソードなどあったら教えください。
T:ミック・テイラーとは彼がジョン・メイオールのバンドにいた頃からの長い友だちで、1969年のストーンズのツアーでも一緒だった。ミックが僕の家にいたある日のこと「テリー、香港に行ったことあるかい?」と訊くんだ。実はミックは香港が大好なんだよ。僕は「どういうこと?」と訊きかえすと、「君も大好きになると思うよ。行ってみたくない?」「何だって?」「電話はある?」と言い階上に行って戻ってくると、「香港の知り合いに今電話したんだ。僕が前回演奏したクラブで僕と君がギグするアイディアをとても気に入ってくれたヨ。グレイトだ!」「ほんとに?ギャラは幾らだい?」。彼が教えてくれた金額を聞いて僕は「ほんとに?マジ?じゃレッツゴーだよ!いつ行くの?」「明日だよ!」、またいつもの「明日!」ってやつかー(爆)。彼はその場でエア・ティケットも手配してしまったので、全てのお膳立て完了だ。僕の当時のガールフレンドも「楽しんでらっしゃい。」ということだったので、さあ行くぞ!だった。搭乗して目覚めたら香港!僕らはそこで大人気だったよ。その時足を延ばして日本にも行くべきだった…。
M:2000年以降は貴方の音楽キャリアが再び始まりました。何が切っ掛けだったのかなぁ?
T:多くの人から同じことを訊かれるけど、僕は子供が小さい頃に出来るだけ多くの時間を一緒に過ごしたいと思ったんだ。これは家族にとっても特別な時期だからね。子供が手離れした頃、イギリスから電話が入ったんだ。「ロニー・スコッツで演奏してみませんか?」「ロニー・スコッツだって?本当かい?まさか…」。突然色々な事が次第に起こり始めて、僕へここで演奏して欲しい、あそこで演奏して欲しい、と依頼が入ってきたんだよ。なぜだろう?今思うにインターネットの普及のお陰だと考えるよ。ビートルズやストーンズのことは既によく知られているけど、ロックンロールのキャラクターを作り上げたその他数多くのグループもそこには存在するのだ!ということがインターネット普及で人々にしっかり浸透していったからだろうね。僕へいろんなところからギグのオファーが来るんだ。秋にはオーストラリアのギグが決定したんだ。

M:キースやワディ・ワクテルとのステージ・ショット。この想い出を語ってください。
▲右からテリー キース ワディ・ワクテル 提供:テリー・リード

T:あ~そうそう。これ演ったこと憶えているよ!見てくれ、このキースのタバコ!凄く楽しかったんだよ。僕らはこのギグをLAで演ったんだ。この写真ではベース・プレイヤーが見えないけど、リック・ロザスがベースだったな。ドラムスはフィル・ジョーンズ!もともとは日曜日の夜にリックのスタジオに行って、飲みながら世間話なんかしていたんだが、僕はあの歌を憶えてるけど、君はこの歌を憶えてるかい?という話になると、リックは何故か全てを憶えてるんだよ!そこで演奏してみるととてもイイ感じなんだ(笑)、で次の歌、次の歌、次の歌、と演ってくうちに、自分が本当に好きだった昔の頃に戻って演奏し始めたんだ。じゃということで、僕はゾンビーズの「She’s Not There」などをカバーすることを基本にした。それはまるでザ・レッドビーツで音楽を始めた頃に戻ったみたいだったヨ。ある晩一人の男がやって来て「ギグをやらないかい?」と言って来たので「あぁ、いいですよ」「じゃあ月曜日の晩に私のクラブに来てくれないか」。そこにキースがやって来たんだよ。ロジャー・ダルトリーもふらっとジョインしたこともあった。

M:ニュー・アルバムの予定はどうなの?
T:またスタジオに戻る計画があるよ。現在の僕に興味を持った人が複数声をかけてくれるんだ。やる限りしっかりやりたいし、当然だが予算も確保しなくてはならない。是非やってみたいんだ。僕は既に様々なジャンルの楽曲、バラード、ロック、ジャズ、コンテンポラリーなど多くの曲を書き留めてあるよ。あとは配給する方法を考えなくてはならないんだ。
協力:S.Yoshida

インタビュー終了から1時間もしない内に僕はテリー・リードの熱いファースト・ステージを味わった。
テリー登場を今か今かと期待させるオープニングのイントロ「The Frame」。暫くすると下手からお待ちかねテリーが登場だ。ミディアム・テンポのしっとりしたナンバー。曲が進むにつれ段々とヒート・アップしていく様にオーディアンスはぐいぐい引き込まれていく。1976年のアルバム『Seed Of Memory』からのテリー自身の作品。
▲CD『Seed Of Memory』 from Mike’s Collection

彼とのインタビューでカントリー・ミュージックも大好きだと語っていたが、早速2曲目はカントリー・チューン「The Bend In The River」。アコギを手に美しいカリフォルニアとメキシコの国境風景を思いながらテリーは歌う。オリジナルは「A White Sport Coat(And A Pink Carnation)」(‘57)のヒットで日本でもその名を知られるマーティー・ロビンス。彼の68年のアルバム・タイトル・チューン。後半部から押し寄せる波の如くテリーのシャウトぶりに僕は感動そしては感動だ!
再びアルバム『Seed Of Memory』からのナンバーで(アルバムのトップに収録されていた)「Faith To Arise」。勿論テリーの作品だ。バック・メンバーのロバート・デイヴィッド/GTR、ジム・ウィルソン/BS、そして長
身のフィル・ジョーンズ/DS(最近ミュージシャンからよく名刺を…。彼とも交換した)がテリーのパフォーマンスに合わせ素晴らしい表現力を見せ聴かせてくれる。ここでのテリーのヴォーカルも絶品だが、テリー vs ロバートのギター・バトルも見所だった。
4曲目はフィルの刻む思いリズムで暗い夜の嵐を表現しているかの如く始まった。そこへロバートのギターがこれまた嵐の如く泣き叫ぶ、「Night Of Raging Storm」。このところテリーがしばしばライヴで取り上げているようで12年のアルバム『Live In London』にも収められていた彼の自作曲。
続く「It’s Only Make Believe」は邦題“思わせぶり”でも知られる。1950年代後半から60年代中期までロカビリー歌手として脚光を浴び、66年からはカントリー・シンガーと大活躍したコンウェイ・トゥッティの代表作。58年Billboard誌HOT100で1位に輝いており70年にはグレン・キャンベルでリバイバルしている(HOT100で10位)。この名作をテリーは熱唱し、オーディアンスはその素晴らしさに再び感動の嵐となった。カントリー・テイストの50年代後半のアメリカン・サウンドに僕は酔いしれた。

そしてテリーはおもむろにジャケットを脱ぎスタンディングで「Leavin’ And Gone」を歌う。J.D.サウザー作のラヴ・ストリーである。サザン・ソウル・バラードを感じさせるドラマティックでエモーショナルな秀作だ。
続いてもカントリー・ソングとテリーのMCが入る。彼のアコギがグルーヴ感を高めサウンドを引っ張る「Things」だ。僕たちにはボビー・ダーリンの62年の大ヒットとしてお馴染みの曲、HOT100で2位を記録した。70年代に入ってカントリー・ミュージック・シーンでアン・マレー、バディ・アレン、ロニー・ドーヴでもリバイバル。ロバート&ジムもコーラスにジョインしオーディアンスも手拍子で場内楽しい雰囲気で盛り上がる。
8曲目はテリーがエレキに持ち替えてパワフルなイントロで入っていく「Road We Chose」。ミディアム・テンポのタイトなナンバー。04年アルバム『Alive!』で取り上げている。L.A.リードの作品とクレジットされている(テリー)。ヘヴィーでロックな雰囲気をフィーチャーし展開していく。
そして9曲前のMCで“さっき友達のMikeがインタビューしてくれて…”。これには僕は嬉しかったり恥ずかしかったり(笑)。そして「It Makes No Difference」。ザ・バンドの75年アルバム『Northern Lights - Southern Cross』収録作品である。ダウン・トゥ・アースでミディアム・スローのサッド・ソングだ。ロバート&ジムが再びコーラスに加わる。
そしてラスト・ナンバーは「Waterloo Sunset」。アップ・テンポの60年代後半のブリテッシュ・ヒット・チューン。ご存知キンクスの67年のシングル曲でミュージック・ウィーク誌シングル・チャート2位を記録した彼らの代表作。面白いことに歌詞に♪Terry♪が登場するが、テリーがこの部分を特に気に入っているのかもしれない(笑)。マイク・スタンドを担ぎあげてのシャウトにオーディアンスは盛り上がり熱い手拍子!
後日、鮎川誠さんの長女・陽子さん(29日参戦)とテリー・ライヴの話しで大いに盛り上がった。一方この素晴らしいテリーのステージに仕事でどうしても駆けつけることの出来なかったロッカー三宅伸治さんが非常に残念がっていたことをご報告しておく。

*ライヴ・ショット = Pic. By Masanori Naruse

そしてこの夜見事なステージを見せてくれたドラマーのフィル・ジョーンズについても触れておこう。
テリーへのインタビューに登場する2002年10月28日、LA/ザ・ジョイントでのワディ・ワクテルのライヴにはキース・リチャーズのほかバナード・ファーラー、ブロンディ・チャップリン、リック・ロッサがジョインし、ヴォーカルがテリー・リード、そしてドラムスをフィルが担当したのだ。彼の名はコアなストーンズ・ファンは知っているだろう、94年リリースのローリング・ストーンズ『Voodoo Lounge』収録の「I Go Wild」でパーカッション奏者としてクレジットされている。
その他フィルはトム・ぺティ、ロイ・オービソン、ジョー・ウォルシュ、ワディ・ワクテル、ニール・ヤング、ボブ・ディラン、J.D.サウザー、ランディ・ニューマンほか多くのアーティストのアルバム・レコーディング/ライヴ・ツアーで活躍している。最新アルバムはジムとのコラボ作品集『Now Playing/Jim Wilson with Phil Jones』。
そんなフィルに日本公演後、直接ご本人へのEメールによるミニ・インタビューさせてもらった(勿論ストーンズ絡みです、ハイ)。

Mike:ストーンズ94年の名作『Voodoo Lounge』収録の「I Go Wild」で貴方はパーカッションを担当しています。どういった経緯でストーンズ・ナンバーに参加することになったのですか?
Phil:僕がトム・ぺティ、クラッカーと一緒に仕事をした時のエンジニアのドン・スミスから連絡が来たんだよ。“ストーンズの「I Go Wild」でパーカッションをプレイして欲しい”。勿論すぐに承諾した。
M:ダブリンに飛んだの?
P:いや、そのセッションはロサンゼルスのA&Mスタジオで行われた。
▲UK7インチ・ピクチャー・シングル「I Go Wild」 from Mike’s Collection

M:その時の様子は?
P:いつもの仕事と同じ雰囲気だったよ。キース・リチャードがドン・スミスと一緒にサウンド・ブースにいたのを除いては!トムほか多くのアーティストとこういった経験は何度もしているからそれほど緊張しなかった。ストーンズも僕らと同じミュージシャンだしね。僕が彼らに敬意をはらって付き合ったように、キース・リチャーズも僕にそうしてくれた。
M:2002年には貴方も演奏しているワディ・ワクテルのライヴにキースが参加しています…。
P:その頃僕はワディとは毎週月曜にロザンゼルスのザ・ジョイントでライヴしていたんだヨ。バナード・ファーラーやブロンディ・チャップリンもほほレギュラーだった。そこにキースがやって来た。彼はワディやテリー・リードと友人だったので、僕ともすぐに打ち解けて一緒にワイワイガヤガヤと。そして皆でステージに立った。これはとても素晴らしい経験だった、まさに ♪ロッキン・グッド・タイム♪!!!
M:『Now Playing』、先日のBillboard Live TOKYOでのライヴに購入しました。とても素晴らしいロックなアルバムです!
▲CD『Now Playing』 from Mike’ Collection

P:『Now Playing』僕のホーム・スタジオ、ローバストゥ・レコーディングスで2年以上かけてレコーディングしたんだ。テリーのバックで一緒に日本に行ったベースのジム・ウィルソンとは僕がペギー・ヤング&ザ・サヴァイヴァーズでドラムを叩いてた時に出会ったんだ。彼はダン・ラノワやエミルー・ハリスのバックを務めていた。僕らは音楽の嗜好そしてルーツがマッチング。ある日、彼に僕のスタジオでちょっとセッションしてみないかいって誘った。そうしたら1日で一気に4曲ものベーシック・トラックが出来上がったんだ。そこで僕は友人たちに声をかけレコーディングに参加してもらった。マイク・キャンベル、マーク・フォード、ロン・ディアーブラ、ファズビー・モースほか多くのミュージシャンが演奏してくれた。その結果が多くのレビューで好評を得た。僕はこの『Now Playing』を素晴らしい出来栄えのアルバムだという自信を持っている。
▲CD『Now Playing』バック・カバー from Mike’ Collection

【イベント報告】

◇MBSプレゼンツ【MIKE’S GARAGE VOL.9】
『クイーンの歴史 総集編』
ズバリ!!大ヒット便乗企画(笑)

クイーンの歴史と銘打ったイベントはこれが三度目で“総集編”となる。今回は1985年のフレディー・マーキュリー最後のステージとなったジャパン・ツアーで当時渡辺音楽出版担当としてメンバーと深い交流もあった田島敏さんをお迎えしての“ここでしか話せないディープなディープな秘話”を中心に進んだ。メンバー各自の素顔と個性溢れる人柄に触れるなどコアなファンならずともたまらない内容、そして思わぬ方向への展開となった。勿論MGクイーン特集には欠かせない森俊一郎さん(元東芝EMI)も要所要所にこれは!というコメントで盛り上がったのは言うまでもない。
▲右から田島さん 森さん 筆者 Pic. by K. Sato

特にメンバーからのリクエストで代々木体育館でのライヴにあわせ急場しのぎで用意されたユニオン・ジャック&日の丸の製作秘話を田島さんが涙ながらの苦労話しをファンの皆さんが固唾をのんで聞く様はイベント冥利に尽きる。来日中のナイト・シーンでの活躍ぶりから豪快なショッピング、そして超豪華なホテルの部屋のエピソードなどなど枚挙にいとまがない。勿論ここでもまだ書けないパーソナルな話題・趣味?がポンポン出てきたのだった。この時ほど森さんのハートフルなメンバーへのラヴを感じさせるトークがイベントに清涼感を与え参加者全員の大きな共鳴を得たと思ったことはない(笑)。そして会場が一体となって「Teo Toriatte(Let Us Cling Together)」を歌ったりと、とても楽しい“クイーンの集い”だった。これはやっぱり総集編パート2があったりして…???
*2019年6月28日@ROCK CAFE LOFT

◇MBSプレゼンツ【MIKE’S GARAGE VOL.10】
沢田研二 大研究”発売記念
I love Julie!!! 第二弾/アンコール編
▲書籍『沢田研二 大研究』 from Mike’s Library

熱烈な沢田研二のファン歴52年、國府田公子さんの書籍『沢田研二 大研究』発売記念トーク・イベントの第二弾。『沢田研二 大研究』はなかなかの好評で、その後國府田さんはテレビにも出演されたりとファンの注目度は熱い。そこで只今全国縦断中の“沢田研二 LIVE 2019「SHOUT!」”について熱き思いを語って貰った、ジュリーはあんなにもショーケンのことが好きだった!これは衝撃の事実だった。また井上陽水の50周年コンサート・ツアーのプログラムにジュリーが登場したことも報告。ファンはこのような情報も求めているのだ。
▲右から 森本さん 西澤さん 國府田さん 筆者Pic. by K. Sato

後半は長きに亘ってジュリーのマネージャーを務めた森本精人さんが登場。ジュリー愛に包まれた実に素晴らしい数々のエピソードを聞かせていただいた。そこへ70年代後半にジュリーの付き人を務めた西澤守さんにもご登壇いただき森本さんとの思い出話に目が点!ドラマティックな内容だった。偉大なるジュリーの魅力とエピソードを語りあう二人は最大にして最強のジュリー・ファンだったのだ…。
*2019年6月29日@ROCK CAFE LOFT

◇MBSプレゼンツ【MIKE’S GARAGE VOL.10】
祝50周年 井上陽水
“Yosui Sound“ マジック 徹底検証!

今年で50周年を迎えた井上陽水の音楽の魅力と秘密を徹底検証。検証者は公私にわたって“陽水と通じ合った”川原伸司さん。レコード・プロデューサーとして現在も活躍する川原氏は、平井夏美・名義で沢田研二、松田聖子岩崎宏美ら多くのアーティストへ楽曲提供している才能溢れるソングライターでもある。陽水の代表作の一つ「少年時代」は井上&平井の共作だ。川原さんは90年の『ハンサムボーイ』以降の全作品でスーパーバイザーとしてYosui Soundに関わり大きなサポートをしている。そんな彼が陽水の魅力と才能を独自の視点で語った。この日だけの超ウルトラ・レア音源も数ヴァージョン登場、陽水ファンの参加者は大感動だった。
▲右から川原さん 筆者 Pic. by K. Sato

因みに川原さんと僕は中央大学附属高校の同期生。半世紀以上の付き合いで同じ音楽業界人であるとともに“呑みパル”。それだけに普段の酒盛りのような雰囲気で“川原”“越谷”と呼び合いながらアヤシイ話題も含めとってもコアな陽水サウンド秘話が披露されたのだった!
*2019年7月5日@ROCK CAFE LOFT

BARKS

BARKSは2001年から15年以上にわたり旬の音楽情報を届けてきた日本最大級の音楽情報サイトです。

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