尾崎世界観とは違う視点で生み出される、クリープハイプの別世界

尾崎世界観とは違う視点で生み出される、クリープハイプの別世界

尾崎世界観とは違う視点で生み出され
る、クリープハイプの別世界

それは、聴けば聴くほど夢中になる
彼こそはクリープハイプのベーシスト、長谷川カオナシである。
名前からも、やや不思議な雰囲気を感じさせるこの人物は、実際にもどこかミステリアスなオーラを醸し出し、尾崎世界観とはまたひと味違う個性と才能を兼ね備えている。
そんな長谷川カオナシが作り上げる曲は、クリープハイプのアルバムやシングルに1曲あるかないかであり、決して数多いものではない。だからこそ、彼が作り上げた曲を聴くと今までとは違った角度のクリープハイプを見ることができ、また新たなクリープハイプの魅力を発見してしまう。
それ故、クリープハイプのファンの中には、尾崎世界観の楽曲を一通り聴いた後に長谷川カオナシの曲の世界観の虜になり、また更に深いクリープ沼にはまってしまう人が相次ぐ、という現象があったりする。現に私もその1人である。
9月に発売したクリープハイプの5thアルバム『泣きたくなるほど嬉しい日々に』には、そんな長谷川カオナシの新曲『私を束ねて』が収録されている。
尾崎世界観が作る曲は“現実的”なものが多く、長谷川カオナシが書く曲は極めて“非現実的”なものが多いように感じていたが、新曲『私を束ねて』は“非現実的”でありながらも、どこか現実世界での引っ掛かりや不調和が垣間見える。
私を束ねて
思春期の頃の“みんなと違う個性を出したい”という感情もそうだが、大人になっても、他人が知らないことを知っている時というのは少なからず優越感があるものだ。
しかし、少し個性を出しすぎてしまうと、世間から変わった目で見られてしまうことがあったりする。
ここの歌詞には、そんな“普通”ということと“変”であることの境界線の難しさ、そもそも“普通”とは何かという疑問、どちらにも属したくない、一緒にされたくない、というような主人公の葛藤が感じられる。
長谷川カオナシは、このような、世間から見られる“くくり”や“分類”のようなものを“束ねる”という言葉に込めて表現しているのだと思う。“束ねる”ということは、綺麗に1つにまとまるということ。周りと調和して生きていかなければいけない世の中だけれど、1つに括られてみんなと同化したくはない。
そんな主人公は、「流行りの言葉の 何かを当てはめてよ」というように、他と紛れない、自分を表す別の表し方を探して悩んでいるのかもしれない。  
“全てわからない”ということの美
この曲は、聴けば聴く度、長谷川カオナシ自身が見ている現実世界なのではないかと思えてくる。普段からミステリアスな彼であるが、常に自分と周りを客観視して、独自の視点から人間の本質的なものを見透かしているようにも感じる。
また、曲の終盤に向けて難しい言葉の歌詞が並べられているが、それらは少々意味深であり、謎めいた表現である。
この、はっきりとした意味がわからない歌詞は、リスナーの解釈に幅を持たせ様々な解釈を生む。これもまた、長谷川カオナシの楽曲で見られる現象なのだ。
歌詞の解釈を自分なりに考え、少しでもその意味が理解出来た時、さらに深い長谷川カオナシワールドへとのめり込んでしまう。こうして、何度聴いても新たな発見をさせてくれる楽曲たちに、リスナーは一層魅了されてしまうのである。
長谷川カオナシが描くクリープハイプの世界は、どこか不思議で不気味さを持っている。そして、全てを掴むことは正直難しい。しかし、これこそが長谷川カオナシワールドなのである。
このカオナシワールドに1度はまってしまうと、クリープハイプの深い沼から抜け出せなくなってしまう。こうして見てみると、長谷川カオナシは、実はクリープハイプの核である尾崎世界観以上に、独自の視点を持ったまだ見ぬ世界観で溢れている人間なのかもしれない。
TEXT もりしま

UtaTen

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