最近電子版が発売となった、『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(ロマン優光・著 コア新書)発売元コアマガジン

最近電子版が発売となった、『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(ロマン優光・著 コア新書)発売元コアマガジン
「サブカル」という領域は誤解されたり、人によって解釈や認識が異なりがちな分野だ。サブカルとは何か、まずはサブカルの源流を誰よりも正しいミュージシャン・ロマン優光が解説する。
「サブカルは死んだ」と言ったのは2015年初頭の私です。「サブカルは死んだ。俺が殺した。」ぐらいまで言えたら、なんかカッコいいんですけど、私がなんかしたわけでもないので、そんなことまでは書けませんでした。
 まあ、そう記した、前著にあたる『日本人の99.9%はバカ』の刊行から2年と経たないうちに、サブカルに関する新書(編注:『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』)を出しているのだから世の中わからないものです。私がサブカルだと思っていたサブカルが死んでしまっても、世の中には別のサブカルが存在して活動を続けている。私がサブカルだと思っていたサブカルが生まれる前にも、また別のサブカルがいたのです。
 オタクの歴史というのが、ある特定の地点に向けて他の要素を切り捨てたら進化していったように見えるのに対して、サブカルの歴史というのは何だかごちゃごちゃとしてよくわかりません。ことなる出自の者同士が離合集散を繰り返し、なんとなく同じサブカルという名前で呼ばれているが内容的には違うものが各時期にそれぞれ存在している。そういったイメージです。
 野合と分離、浸透と拡散といったことの繰り返しなので、前の時代のサブカルと呼ばれる領域に含まれていたものが、次の時代には姿を消していたり、前の時代のそれの中に含まれていたものとは全く関連がなさそうなものが、次の時代にはサブカルと呼ばれているということもあります。
 今のオタクを構成する要素はオタク的な存在が最初に生まれた時から含まれていたのに、今のサブカルを構成する要素は最初にサブカルと言われたようなものの中に全てが含まれているわけではないのです。ようするにサブカルという存在は曖昧模糊として不定形な胡散臭い存在なのです。そこがいいところでもあり、悪いところでもあるわけなのですが。
 今までのサブカルの歴史の中では商業媒体の中で作品に価値付けをしていく評論家のような存在が重要なポジションを占めていましたが、インターネットの普及と共に徐々に数を増やしていった、そういった媒体を通さずに作品と接している人たちの登場で色々と変わっていくのだろうなと感じています。
 今から10年の間に、現状で強い影響力を持っている40代から50代の人たちが、よりメジャーなフィールドに活動の舞台を移したり、加齢と共に引退したりで、徐々に姿を消していくことになるでしょう。
 私は高校生ぐらいの時、小林信彦という作家が好きでした。小説家としての部分よりも、サブカルチャー評論家としての側面が好きで、彼の書いた時事コラム、映画評、芸人評といったものを読み漁っていたのです。元祖オタク/元祖サブカルとも言っていいような人ですよね。影響はかなり受けたと思います。
 そんな小林信彦のことを少しイヤだなと思いだしたのが、91年から92年の間に作家/音楽評論家の松村雄策との間に起こった『ビートルズ論争』です。
 小林の小説内でのビートルズの日本公演の考証をめぐって起こった論争なのですが、どっちが正しいかは置いといて、小林の態度が少しどうかと思うものでした。格下の相手に対するマウンティング、自分の知識は絶対間違っているはずがないという態度、詭弁での論点ズラシ、一方的に被害者ぶる姿。松村側もどうかと思うところがあったのですが、それよりも小林のやり方のフェアでない印象が強いです。子供じみた全能感と悪い意味での大人の汚さが同居した様子に当時の私はドン引きでした。あんな感じになる前にみんな去れたらいいですね。
 そして、そんな長期間に渡ってサブカルの歴史と併走してきた人たちが去っていった後には、どんな感じのサブカルが残ってるんでしょうね……。まあ、その頃にはサブカルなんて名前で呼ばれているものなんて存在していないという可能性もありますが。
 この本の執筆の依頼を受けた時に、正直「自分でいいのかな?」という戸惑いがありました。もっとサブカル的に権威があって知名度のある人が書いたほうが、どう考えたって説得力がありますよね。よくよく考えてみると、サブカルのド真ん中にいるような人間が、サブカル内部に対する批判的な要素を含む本を書くのは周囲に対して差し障りがあるし、リスクが高すぎます。
 そう考えてみると、サブカル内の界隈に属しているわけではないけど、それなりに付き合いがないわけではない、一応サブカルと見なされている自分のような人間が書くのがいいのかも知れないと思うようになりました。自分のような知名度の人間だと怒られたところで失うものは大して無いし、出版社的にも切り捨てるのが簡単な存在ですからね。いや、怒られたくて書くわけではないですが。
「自分のことをオタクだと思っていたら、ある日突然『お前、今日からサブカルな!』と言われてサブカルになってしまった!」という思いを抱えている私にとって、サブカルという名前は思い入れが強いわけではありません。
 しかし、サブカルと言われてる領域の中には今も昔も私が大好きなものが含まれていて無視できるわけでもなく、常にアンビバレントな気持ちがありました。ただ、客観的に見てみると私の活動はサブカルの領域の中で行われていて、私に対するニーズのほとんどもその中にあります。結局のところ、私は客観的にはサブカルでしかないわけです。
 そうである以上は、サブカルに対する責任というものをいくらかは負わなければならないでしょう。この本を書くことで、その責任を少しだけ果たせるといいなとは思っています。サブカルに泥を投げつけてるだけのような気がしないでもないですが。
第一章 幻想のサブカル地図 みうらじゅんはサブカルなのかサブカルの源流を辿る サブカル、サブカル、サブカル、サブカル、サブカル……。
 この本のタイトルにもサブカルという言葉が入っていますけど、サブカルとはいったい何なのでしょうか?
 はっきりわかることは、現在言われているサブカルとは単純にサブカルチャーという言葉の略語ではないということ。そして、その人の文化的立ち位置や世代によって内包する範囲が変わってくる言葉だということです。年令やコミュニティが少し変わっただけで微妙に内容が違ってくる言葉です。
 同じサブカルという言葉を使って会話をしていても、互いに微妙にズレたニュアンスで使っていて、途中で「あれ?」と思うこともたびたびあります。「あれ?」と思うことができていればいい方で、互いの認識の齟齬に気付かないまま会話をしてしまっていることも多いのではないでしょうか?
「今はアイドルがサブカルのメインコンテンツになってしまった。」「あのアイドルはサブカルだから」では、それぞれ「サブカル」という言葉が使われてはいますが、意味はことなります。
「今はアイドルがサブカルのメインコンテンツ」と言う場合、サブカルチャーを扱うライターや雑誌及びその消費者を指すことになります。しかし「あそこのアイドルはサブカル」と言った場合、一般的なアイドルポップスではない楽曲を演目としているアイドルを指すわけで、その楽曲がいわゆるサブカルの人が好むタイプの楽曲かというと必ずしもそうではありません。「サブカルは奇をてらったことを好む」という漠然とした印象でサブカルという言葉が使用されているだけなのです。  それぞれ違う認識を持つ前者と後者が会話することになったら、「アイドルは今やサブカルコンテンツ」「サブカルなアイドルとサブカルでないアイドルの両者が存在する」みたいな感じで話がすれ違うのは想定できるでしょう。アイドル自身が「私はサブカルだから」と言ったとしても人によって意味が違ってきます。我々、1970年前後に産まれた自分たちの世代のサブカルだと世間に認識されがちなタイプの人間が普通に考えれば「吉田豪や映画秘宝を好む子なのかな?」と思います。実際、そういう子もいるんです。しかし、今の若い子の中には、少しマニアックなアニメやゲームやコスプレを好むことがサブカルだと認識している子もいるし、バンドとか漫画が好きなことがサブカルだと思っている子もいます。そんな子たちに話が合うと思って交流の場に赴き全く会話が成立せず撃沈するするサブカルおじさんアイドルオタクの姿も既に各所で見られているかもしれません。
 今のは極端な例で、自分もそうですが、みなさん場面や相手によって使い分けられていると思います。しかし、それにしたって曖昧な感じで話を合わせているだけで、サブカルなんて言葉には実体なんてないんですよ。
 ただ、この本では便宜上「私が考えるサブカル」というものを決めておきたいと思います。そこをハッキリと決めておかないと、全然話を進めていけないからです。当然ですが、それは絶対のものではありません。これが正しいサブカルとかそういうのではないのです。あなたがサブカルと思っている領域が含まれていない場合もありますし、あなたがサブカルと思っていない領域が含まれているかも知れません。サブカルというものを全く知らずにこの本をとってしまった方がいらしても、そんなには失望しなくてもいいかと思います。賛否が激しくなるような極論ではなく、わりと中庸なところでやっていくつもりですので。
 そう、この本の中で語られるサブカルは私の個人史の中で体験的に習得した私的なサブカル観に「世間的にはあれもサブカルってことになっているよな。」という感じで多少世間にすり寄った部分を合わせて、わかりやすい形で定義してみることを試みたものなのです。
 私の考えるサブカルとは何か? 一言で言うならば「町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生したもの/その愛好者」です。 現在は映画評論家、コラムニストとして認知されている町山智浩。そもそものスタートは編集者でした。学生時代に編集プロダクションのバイトとしてアニメ書籍に関わり、宝島入社(旧JICC出版局時代)後は、『宝島』本誌ではみうらじゅん、根本敬などのガロ系漫画家を担当する一方、音楽誌としての色の強かった『宝島』で当時のバンド・ブーム、インディーズ・ブームもあり大槻ケンヂなどのミュージシャンの担当もしました。別冊宝島に異動した後は「おたく」「怪獣」「新興宗教」「映画」などを扱った書籍を発行。『宝島30』で北朝鮮の拉致問題をめぐりオールドスクールな左翼や総連を批判する一方、小説家の夢枕獏、漫画家の板垣恵介、谷村ひとしといった格闘技モチーフの作品を書いていた豪華な面々と当時未知の存在であったグレイシー柔術のビデオをなぜか一緒に観てたり。その後、宝島社の子会社である洋泉社に出向し、かつて岡田斗司夫、唐沢俊一といった人物が在籍した「と学会」による『トンデモ本の世界』を手がける一方、『映画秘宝』を創刊。ざっと見てきただけですが、凄まじく広い領域に関わっているのがわかります。
 全ての現在サブカルだと一般に見なされるような領域を町山さんが直接的に手がけたとか、オリジネーターだとか、そういうわけでは当然ありません。たとえば、編集者の故・青山正明や編集者でライターの故・村崎百郎に端を発するであろう悪趣味/鬼畜ブームの流れがあります。白夜書房(及び、そこから派生したコアマガジン)、ペヨトル工房、身売りする前の青林堂(及び、身売り後立ち上げられた青林工藝舎)、データハウスといった出版社が連なる別の流れです。
 しかし、唐沢俊一と村崎百郎の関わりだったり、初期のムック本時代の映画秘宝には鬼畜ブームのテイストが残っていたりしたわけで、町山さんの編集者としての軌跡の中では関わっているわけです。そういうわけで、「町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生したもの/その愛好者」という風にわかりやすい感じで定義しておきたいと思います。
蔑称としてのサブカル 非常に大雑把ではありますが現代のサブカルの含む領域の定義をしたところで、サブカルの歴史というものを考えていきたいと思います。日本のサブカルチャーの歴史ではなくて、あくまでサブカルの歴史です。まあ、まったくサブカル前史に触れないのもなんなので、現代のサブカルに直接的な影響を与えた何組かのサブカルの原型――言うなれば、プロト・サブカルと言えるような文化を代表する雑誌やムック本――をあげておきます。『宝島』(町山在籍時まで)、初期の『別冊宝島』、『ビックリハウス』(パルコ出版)、『月光』(南原企画)、判型が小さい時期の『FOOL MATE』(フールズメイト)、『ガロ』(青林堂)、『夜想』(ペヨトル工房)、『銀星倶楽部』(ペヨトル工房)、青山正明が関わった80年代初期の『Billy』(白夜書房)といった特殊なエロ本などがあげられます。あと、『漫画ブリッコ』(セルフ出版)自体はサブカルに直接繋がるかどうかは微妙なのですが、大塚英志が編集長時代に発掘した漫画家・岡崎京子、『宝島』文化圏で活動していた映画イラストライターの三留まゆみを輩出したり、中森明夫が連載コラムを持っていたので、その中に含めていいかもしれません。
 ただ、これらのものが現在のサブカルとイコールで結べるかと言えるかといえばそれは違います。パンクロックというジャンルが70年代に成立した時にストゥージスやMC5といった60年代末から70年代初頭に活動したバンドがプロト・パンクとして再評価されましたが音楽的には明確な違いがあったり、現在パンクだと言われているメロコア以降のパンクと70年代末の所謂オリジナルパンクが音楽性に明確な違いがあるように、プロト・サブカルとサブカルの間には差異は間違いなく存在します。
 あと、ここで挙げられている雑誌名を見ていて何となくわかる方もいらっしゃると思いますが、ニュー・アカデミズムやポスト・モダンといった思想の影が色濃く落ちているものが多く見られます。現在のサブカルにそういったものの要素は上澄みの上澄みぐらいしか残されてないとは思うのですが、当時のニューアカ・ブームにミーハー的にのっかっていた人たちの持っていた変にスノッブな感じは残されているような気がします。
 単なるサブカルチャーの略語としてのサブカルではなく、別の意味合いをもったサブカルという新しい名称が生まれたのは90年代で間違いありません。私の個人史の中でもそうなってます。ところで、ここで一つ困ったことがあります。単なるサブカルチャーの略語ではないサブカルという言葉を最初に私が意識した時(90年代初頭ですか)その頃は現在使われているのとは少し違うニュアンスを持って使われていたのです。少し違うというか、はっきり言うとネガティブな意味合いで。
「サブカルチャー(プロト・サブカル)愛好者の中にいる、ミーハー的に情報の表層だけをすくっているだけの底の浅いくせに変にスノッブな態度の人、それを使って一目置かれたいだけで実際は大して知識があるわけではないような対象に愛情がない不快な人物」のことを指して使われていました。現在でいうところのオタクに近いニュアンスで使われていたマニアと呼ばれる人たちの中の非常識な問題ある人物が「おたく」と呼ばれていたような感じで、現在で言うところのサブカルに近い感じの人たちの中にいるミーハーで表層だけ撫でているだけの不快な人たちのことを「サブカル」と呼んでいたのです。
 逆に「サブカル」という言葉を侮蔑的に使っていた人たちは自分たちのことをどう認識していたのでしょう。私は「サブカルチャーも趣味の範囲にはいってるマニア」でした。恐ろしいことに、宮﨑勤ショックの影響で、私はあの不快な「おたく」という存在と同じ名称で自分を認定することがまだできなかったのです。というか、あれ以前も自分をマニアだと思っていたし。当時、既に媒体側にいた人たちがどのように捉えていたかはわかりませんが、自分個人の皮膚感覚ではそういうことになってます。
 まあ、自分は「サブカル」などというダサいものではないと思いながらボンヤリ暮らしていたら、90年代半ばに岡田斗司夫がオタクの仮想敵としてのサブカルというものを定義したわけですが、本章の流れに沿って凄く大雑把に言うと、それは「サブカルチャー(プロト・サブカル)が好きな奴はミーハー的に情報の表層だけをすくっているだけの底の浅いくせに変にスノッブな態度な奴で、それを使って一目置かれたいだけの対象に愛情がない不快な人物」というようなものです。ようするに、かつての中森明夫が私にやったのと同じようなことを、今度は岡田斗司夫が私にやってくれたのでした(第2章参照)。
「俺はサブカルでもないし、オタクでもない、ただのマニアだ。」という気持ちもあったのですが、やってたバンドがサブカル層に人気が出るようなバンドだったり、文章を書く媒体がサブカル層に人気のあるような媒体だったりしたことで、「もう、意地をはっても仕方ないから世間的にはサブカルってことでいいです。」と思いつつ「体質的にはサブカルっていうよりサブカル趣味のオタクなんだけどなあ。」と思っているうちに90年代的なサブカルは事実上滅びたのではないかと思って過ごしています。
 これが「私の極私的サブカル史」ですが、同年代でもサブカルという言葉にネガティブなニュアンスを感じず素直に最初から自分をサブカルと認定した人もいるでしょうし、サブカルをオタク以外のなんかマニアックなあり方として認識していた人もいるわけで、ここら辺は業界内の歴史とは別に人の数だけサブカル史があると思います。
 こうやって世間的な通史及び個人史を振り返ってみるに「町山智浩が編集者として扱ってきたもの、そしてそこから派生したもの/その愛好者」というサブカルの定義にもう一つ要素が加えられるかと思います。それは「その中で岡田斗司夫が自分たちのものであると主張しなかったもの」です。媒体側の人間の考えるサブカルの歴史と自分の個人史、そして世間が考えるサブカルというものを摺り合わせてみると、まあこんな感じなのではないでしょうか。
以上は、コア新書『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』のまえがきから第一章の二節目までです。 電子書籍版は各販売サイトで販売中です。配信先は文末をごらんください。
~目次~
第一章 幻想のサブカル地図 みうらじゅんはサブカルなのか
サブカルの源流を辿る/蔑称としてのサブカル/サブカルっぽい有名人/サブカル風評被害/みうらじゅんはサブカルではない
第二章 中森明夫と宮﨑勤の〝罪と罰〟
これが中森明夫だ!/中森明夫と宮﨑勤/中森明夫のアイドル語りがひどい/中森明夫と岡田斗司夫
第三章 そのサブカル、間違ってます!
サブカルを分けてみた/マウンティングするバカ/みんなアニメが好きだった/ファッションサブカル野郎/間違ったサブカル批判/サブカルのオタクいじめはあった?/イケダハヤト、はあちゅう/サブカル評論家と呼ばれている人
第四章 カリスマはいなくなった
ターザン山本という男/ブレーンに頼りすぎて凋落/ビバ彦という男/町山智浩という男/カリスマぶるには断定口調が大事
第五章 サブカルと女性
「こじらせ女子」って?/久保ミツロウ問題/ネットがよく炎上する東村アキコ/岡田あーみんという事件/大塚さんのこと
第六章 サブカルおじさんの害 町山智浩をサンプルに考える
サブカルおじさんを慕う薄ら寒い人々/中年の悪ふざけは痛々しい/「女のマニアックな趣味は男の影響」という考え/おじさんは夢見る少年でいたがる
第七章 なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか
水道橋博士のケース/プロト・サブカルなら仕方がない/なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか/サブカルもオタクもダメダメだ/オタクだと言い張る唐沢俊一/中原昌也と高橋ヨシキのオタク叩き/今の『映画秘宝』どうよ/安易なレッテル貼りはダメ絶対
◎主要配信先は以下でご確認ください(リンクしないサイトでごらんの方はブラウザにURLをコピペしてください)。
http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_021.html
なお著者・ロマン優光氏の新刊 コア新書「90年代サブカルの呪い」は書籍で2019年3月4日より全国書店・ネット書店で発売中です。
http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_027.html

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