L→R YAMATO(Vox)、NAOTO(Gu)、YOH(Ba)、RYO(Vox)、HIROKI(Vox)

L→R YAMATO(Vox)、NAOTO(Gu)、YOH(Ba)、RYO(Vox)、HIROKI(Vox)

ライヴ活動を行なうアーティストの拠点となるライヴハウス。思い入れ深く、メンタル的にもつながるライヴハウスについて、活動を始めた当時を振り返りながら語ってもらった。
もしかしたら、ここで初めて出る話もあるかも!?

L→R YAMATO(Vox)、NAOTO(Gu)、YOH(Ba)、RYO(Vox)、HIROKI(Vox)

L→R YAMATO(Vox)、NAOTO(Gu)、YOH(Ba)、RYO(Vox)、HIROKI(Vox)

ORANGE RANGE プロフィール

オレンジレンジ:沖縄の米軍・嘉手納基地近くのコザ(沖縄市)に在住する5人組ロックバンド。2001年に結成し、02年2月にアルバム『オレンジボール』でインディーズデビュー、そして03年にシングル「キリキリマイ」でメジャーデビューを果たす。10年7月には自由な音楽を生み出すために自ら設立した音楽レーベル『SUPER ((ECHO)) LABEL』にて活動を開始。ジャンルにとらわれない自由かつ高い音楽性と卓越したポピュラリティーで、数々の名曲を送り出し続けている。ORANGE RANGE オフィシャルHP

真似できないオリジナリティーが
このバンドにはある

2001年の結成時、ORANGE RANGEとしてどういった音楽がやりたいと思っていましたか?

YAMATO
当時流行っていたミクスチャーと、バンドスタイルでラップをしたいというのがなんとなくありました。コピーしていた曲もそういう曲だし、ラップの曲を作っていたり。一番最初にできたのは「奏重鼓」(ミニアルバム『オレンジボール』収録曲)だったかな? どっちかと言うと、そんなに明るい曲をやっているバンドではなかった気がします。セッションしながら作ってたので、ワンフレーズを作るだけでも長時間かかってました。

当時はどの辺りでライヴをしていたのですか?

HIROKI
7th Heaven Kozaっていうライヴハウスにわりと出ていましたね。学生が主催するイベントが当時たくさんあって。だから、僕たちが主催していたものもあるし、誰かが主催していたものに出ていた時もあるし、客としてもわりと頻繁に出入りしていました。“ライヴハウスにいるだけでカッコ良い”みたいなのがあったんですよ(笑)。今はもっと敷居が高くなっているような気もするんですけど、あの時はみんな“あいつが出るから遊びに行こうぜ”みたいな感じでした。

同級生や歳の近い人たちにもバンドをやっている人が多かったのですか?

HIROKI
いっぱいいましたよ。クラス内だけでもバンドが2~3個あるような感じで。もちろん掛け持ちしている人もいるんですけど。だから、ライヴハウスは遊び場という感じでしたね。

初めてライヴをした時はどんな感じでした?

HIROKI
ステージに上がって…まぁ、目の前にいるのはクラスメイトだったりするんですけど。そういった人たちが盛り上がってくれるのは気持ち良かったです。やっぱり照明もあるし、爆音も出せるし、スターになった気持ちになりましたね。でも、翌日学校に行っても誰も何も言ってくれなくて(笑)。
YAMATO
僕だけ、この4人と高校が違うんですよ。HIROKIの学校は次の日何もなかったみたいだけど、うちの学校ではちやほやされました。その温度差は見ててすごい面白かった(笑)。
HIROKI
YAMATOの高校にライヴに行った時、めちゃくちゃ盛り上がってすごいなと思いましたね。
YAMATO
うちは軽音楽部やバンド自体が少ない学校だったので、音楽をやっていること自体が珍しいというか。そっちの学校はバンドがたくさんあったもんね。
HIROKI
先輩とか後輩もいっぱいいたしね。RYOが高校3年の2月にインディーズのCD(ミニアルバム『オレンジボール』)を出して、リリースイベントを回ったらめちゃくちゃ盛り上がって。翌日、声掛けられるかなって思ってNAOTOと一緒に売店の前の椅子にずっと座ってたんですよ。声を掛けやすいチャンスを作るためにずっと座ってたのに、誰も話しかけてくれなくて…(笑)。

(笑)。当時はどのようなライヴをしていたのですか?

YAMATO
全てがいっぱいいっぱいでしたね。それこそステージの上をひっちゃかめっちゃかに掻き回してケーブルがぐちゃぐちゃになって、それを1曲終わるごとに直して(笑)。あとは、ライヴを始めた時はオリジナルの曲の数も少なくて3~4曲しかなかったから、MCを30~40分やったり。
RYO
ライヴハウスだけじゃなくてモールの駐車場でやったりもしていたので、それは辛かったかな。駐車場のスペースを借りてやるんですけど、僕ら目当てのお客さんはほぼゼロでしたね。あれは心の修行になりました。

他に覚えているエピソードはありますか?

RYO
マイクを手持ちでレコーディングしたりしてたよね。
NAOTO
デモテープを作る時、レコーダーを買うだけで精いっぱいだったんですよ。だから、スタンド的なものが買えなくて、僕がマイクを手で持って録るっていうのをやってましたね。で、失敗したら怒られるから…
YAMATO
スタンドがないから、ずっとマイクを向けてるんですよ(笑)。狭いスペースで。
NAOTO
しかも、人の家でやってたんですよね。
YOH
大体話には出たかなと思うんですけど…自分たちが周りと違うなっていうのは当時から感じていましたね。今もずっと、それは十字架のように背負っているんですけど。みんなは同じシーンだったり、束になりたがるというか。でも、そういうのに一切触れてこなかったんで。今も変わらずそうだし、当時からそういうところはありましたね。
YAMATO
僕らに似ているバンドはいないですよね。僕らは異色というか、何でも混ぜてしまうっていう沖縄のちゃんぷるー文化でもあるのかな。今やっていても“うちらに似ている人っていないよね”って感じるし、当時からそんなのはあったかな。
YOH
人間のカラーみたいなのが決まってたもんね。ちやほやされる人が先頭を切ってシーンを作っていくじゃないですか。そういうのとはまったく違う人間性だし。だから、そういうところで違うと思ってたかも。人もあまり寄ってこないし(笑)。

ORANGE RANGEでやっていこうと決めたきっかけはありましたか?

YAMATO
僕が覚えているのはスカウトですね。当時7th Heaven Kozaで2~3カ月に1回、学生イベントをやっていたんですけど、たまたま学生イベント以外のものにも出るようになって。そこで、ちゃんと片付けができるバンドとして“いい子だな、お前たち!”って声を掛けられて、小さいCDショップにデモテープを置かせてもらえることになったんです。で、持って行ったら“CDを出さないか?”っていう話になって。周りには上手いバンドがたくさんいるんですけど、その中で声を掛けられて、一生に一度あるかないかだし、やってみてもいいんじゃないかって話した記憶があります。何か知らないけど、その人たちと焼き肉屋で食事会をして、そこで俺がみんなにどっきりにかけられたんです(笑)。

どういったどっきりを仕掛けられたのですか?

NAOTO
誕生日じゃない? 誕生日ケーキを出す。
HIROKI
誕生日? 絶対違うでしょ、それ。
全員
(笑)。
YAMATO
いつの話してるの?(笑)
HIROKI
あまり覚えてないけど、CDを制作して出せるっていうのはYAMATO以外は知っていて、勝手に承諾して、その食事会でYAMATOに言ったのかな。
YAMATO
知った時は“どういうこと?”ってなったけど、当時はインディーズがブランドみたいになっていて、僕の中では“就職決まったー! あとは学校には遊びに行くだけ!”みたいな気持ちでした(笑)。高校の卒業間近で進学とか就職に追われてるのが嫌だったので、ほっとした部分がありましたね。売れる売れないじゃなくて、そういうことができるのが嬉しくて。“レコーディングって何するの?”みたいなわくわく感もありました。

声を掛けたのはあまり同じようなバンドもいなかったからなのですかね? あとは、片付けが上手かったという(笑)。

YAMATO
“他のバンドはみんなお前たちより上手いけど、お前たちに声を掛けたのは片付けが上手かったからだ”って聞かされてましたね(笑)。
HIROKI
僕は一生の仕事になるとは考えてなかったですけど、YAMATOと一緒で、しばらくは卒業したあとも現実と向き合わずに遊べる口実ができたなと思いました(笑)。
YAMATO
でも、当時からみんな真面目だったというか、それぞれのポジションも分かっている人たちで。それこそ1本のライヴをやるにしても、ちゃんとビデオを録ってそれを全員で見直して話し合ったりしてました。あまり知識がないから反省ばかりしていたイメージ。めちゃくちゃNAOTOが練習に対して厳しかった。“何回やるの?”っていうくらい、ひたすらスタジオで練習。嫌になるくらい厳しかったです。そういうのもあって、今でも練習に対しては自分の中で“こうしよう”っていうのを考えて行きますね。やっぱり練習ができてないと本番で活かされないんで。あれがあったから練習に対してもみんな貪欲になれたのかなと思います。もう、本当にNAOTOが鬼コーチに見えた。
NAOTO
…えっ、俺? HIROKIじゃない?
YAMATO
いや、“もう1回!”“もう1回!”って言ってたよ。椅子に座って歌ってたら、“練習中は座らないで”って怒られたもん(笑)。
HIROKI
それは俺言わないし…NAOTOも言ってるイメージはないけど(笑)。
NAOTO
俺、言ったのかな?(笑)
YAMATO
だって、あの時NAOTOのことが怖かったもん(笑)。でも、お陰でいろんな知識も増えていったし、いい勉強の時間だった。MCひとつにしろ、ああだこうだ言って。

憧れだったステージはありますか?

YAMATO
『Pepeaceful Love Rock Festival』かな。いわゆる夏フェスの走りじゃないですか。今では35周年くらいの伝統があるフェスだし、沖縄のバンドマンの憧れの場所。それを目掛けてストリートライヴとか、それこそデパートの駐車場だったり、市町村の祭りとかで1年間修行をしてました。それで念願の『Pepeaceful Love Rock Festival』に出た時は超嬉しかったですね。

その時の出来事が今につながってるなって思うことはありますか?

HIROKI
最初は自分たちでやれる規模だったことが、メジャーデビューして携わる人が増えて、タイアップも含め、曲をひとつ作るにしてもいろんな人たちが関わってくれて。そんな中で、いろんなことにチャレンジしてきたことが一番の財産かなと思いますね。メジャーデビューした1枚目のシングルは「キリキリマイ」というインディーズの時からあった曲だったんですけど、2枚目のシングル「上海ハニー」も含めて、これまでの自分たちとは違う楽曲だったんですよね。それでも挑戦してきたことかな。

ORANGE RANGEとしてやってきて良かったなと思う瞬間は?

YAMATO
ご飯に行った時に“これ、サービスです”って何かをもらえる時は、本当に良かったなって思います(笑)。なかなかないんですよ! たまたま行ったお店で“お店からなんで、いただいてください”って言われた時の喜びはORANGE RANGEで良かったなと思う! だから、新しいお店に行くのが楽しみです(笑)。

(笑)。最近ではORANGE RANGEを見て育ってきたというアーティストにも出会うと思うのですが。

HIROKI
嬉しいですよね。“小学生の時に聴いてました”ってよく言われますよ。言ってくれるわりには全然違うジャンルをやってたりするけど(笑)。でも、最近は誰もが知ってくれているっていうのがすごいことだし、真似できないオリジナリティーがこのバンドにはあるのかなと改めて思って自信になってます。

OKMusic編集部

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