Mr.Childrenの「ファスナー」に隠された、どうしようもない男の本音!?

Mr.Childrenの「ファスナー」に隠された、どうしようもない男の本音!?

Mr.Childrenの「ファスナー」に隠さ
れた、どうしようもない男の本音!?

「大丈夫」って、何も知らない人に軽く言ってほしくないし、その闇雲なポジティブさ、断じて受け入れたくない! …と、だいぶひねくれていた私である。
(あと、過去に物議をかもした「Over」の「顔のわりに小さな胸」というフレーズ。これに私が当てはまる、といじられた軽いトラウマも、理由としては大きいかもしれない)
でも、数年前にスガシカオのアコースティックアルバム「Sugarless II」を聴いていた時のこと。ミスチルの意外な一面に出会ってしまった。
それが、Mr.Children桜井和寿さんがゲストボーカルで参加していた、この曲「ファスナー」である。
冒頭からの、このインパクト。何だか、青少年には聴かせられない生々しい響きだ。
これは、爽やかで生ぬるくて優しげな、いつものMr.Childrenではないぞ…!? と、私の心の中で黄色信号が灯った。いい意味で。
この男女、おそらく恋人同士ではない。
「下ろしたスカートのファスナー」「およそ期待した通りのあれ」というフレーズから、二人はいわゆる大人の関係ってやつ。
ひょっとすると、女性の方は付き合っている気分でいるのかもしれないけど…。もしそうならば、報われない恋だ。
だって、歌詞に出てくる男性がひどい。
君=女性に自らスカートのファスナーを下ろさせておいて、“大切にしなきゃいけないのは君じゃなかった”と冷めた反応。
相手の好意に気づいておきながら、ことの後で冷酷に手のひらを返すなんて…。男の風上にも置けない、クソ野郎ぶりである。
女からしたら、たまったものではない。
けれど、男性のほうにもちゃんと言い分があるようで。
「君の背中にもファスナーが付いていて」、本当の「君」の姿はその中に隠されているのではないか?
そして、別の男にはまた違う顔を見せているのではないか?
(例えば、気になる他の男性にいい顔したり、二股したり、「僕」以上に大切に思ってる男がいたり…?)
だから、「君」を大切にすることはできない。
…これ、単に女性不信なの?とも思うんですが。やっぱり女としては、この曲を聴いて生まれるモヤモヤした気分は変わらない。
歌詞はスガシカオが書いたんだと思ってた
でも、仕方がないよね、スガシカオが書いた歌詞だし。まあ、そういうドロドロしたところも最高なのよ。と、思いきや、実は…。
この曲の作詞クレジット、なんと桜井和寿さん本人だったので、おったまげた。
「ファスナー」は、Mr.Childrenのアルバムにもちゃんと収録されているそうなのだ。
(桜井さんが、スガシカオさんをイメージして書いた歌詞、という一説もあるようだけれど)
これがミスチルなの? 本当に? いいの? ファンの人はいいの?
だって、家を行き来するまで親しい女性に対して「御座なりの優しさ」でいいや、と割り切る男。
彼が彼女にゆるすのは、身体だけであって、心では決してない。
優しくファスナーを上げてあげながらも、もう「次の標的(ターゲット)を探している」。
そして、「でもそれが君じゃないこと 想像してみて少し萎えてしまう」と。
…なんて自己中心的なんだろう。だったらいっそ、優しいふりなんかするなよ! と、憤りたくなる。
ミスチルって、いついかなる時も女性を(そして人類を)全力で愛し、見守る。背中を押す。
そんな“いい人”的なポジションじゃないの? それでいいのか?
※注:個人的なイメージです
当時はなぜか動転してしまったけれど、アルバムに収録されているくらいだし、ライブでも当然、演奏されるみたい。
スガシカオも出演したap bankフェスでは、ステージ上で一緒に披露されたこともあり、観客にも受け入れられているようなのだ。
ミスチルファン、心が広いな。
誰にでも「ファスナー」があるという真実
でも、この曲の本当の魅力、聴いていたら少しずつわかってきた。
「ファスナー」に描かれているのは、女性をおざなりに扱う“男の嫌な一面”ばかりではないのではないか。
「総ての事にはファスナーが付いていて」とあるように、閉じたファスナーの中に何かを隠しているのは、女性だけじゃなく、自分(=この曲の中の「僕」だったり、曲を聴いている私たちだったり)もそうである。
誰しもファスナーの中には弱い自分、汚い自分が入っているのだ。
小さな恥から犯罪レベルのことまで、しまっているものの大きさは、人それぞれかもしれない。
でも、大なり小なり、この世の中はファスナーに覆われた嘘のものごとだらけ。
油断していると、いつ足元をすくわれるかわからない。だけど、その嘘だらけの世界が現実なのだ。
そして、そんなフェイクの中にも‟本当“があることを「信じてみる値打ちは あると思えるんだ」という、男性の悟り。
ここにはポジティブな愛すら感じる。
私は個人的には、この歌詞に出てくる男性は嫌いだ。でも、人間って誰でも、そんなふうに必死に“普通”なふりをしながら生きている。
そう思うと、もれなくみんな愛しくないだろうか?ああ、隠してるのは私だけじゃなかったんだな、って。
それに、この曲ではファスナーを閉めたあとの姿を「ウルトラマン」「仮面ライダー」というヒーローに例えている。
ファスナーがついているものといえば、他にも着ぐるみや、普通の洋服でも種類はあるはずなのに。
本当は「目を腫らして大声で泣きじゃくってる」、どうしようもなく弱い心。でも、そんな自分を強く・かっこよく見せたいという願い。
華麗に変身するヒーローには、そんな希望が込められていると思う。
そして一方、人間の根本的な性格やキャパシティは簡単には変わらないという、残念な事実もある。
いくら強いヒーローになりきってみたとしても、中にいる自分は変わらず臆病でカッコ悪いまま。
だから、いちどヒーローみたいに振る舞ってしまったら、もう怖くてファスナーを開けない。
つまり、強いままの“偽りの自分”を演じなきゃならない…。
FacebookやInstagramなんかで、ついカッコつけて後悔するのも、これと似た心境ではないのかなあ。と、ちょっとぎょっとしたりもして。
他の曲の夢いっぱいな歌詞の中に、時に、こんな世知辛さも挟み込んでくるミスチル。あなどれない。
人と人の間の、アンバランスから愛が生まれる?
この曲を聴いて「元気が出る!」という人はいないと思う。けど、人間にはほぼ間違いなく表と裏がある。
歌詞の中に出てくるような自己中心的な男は嫌だけれど、誰もがそうやって虚勢を張っている部分もあるんだろうな…と思うと、何だかかわいく思えたり。
そのアンバランスがあるからこそ、私たちは、人を愛せるのかもしれない。ミスチルのいう愛って、もしかしてそういうこと?
とすると、最後のこの意味深な一行の解釈は、こうだろうか。
「僕」は、冒頭の「君」に対して恋愛感情は湧かないかもしれない。アンバランスの中にもバランスが大切で、2人の間にはそれはなかった。
だけど、ファスナーの中に何かを隠しているのは、人間だからお互いさま。
それでも頑張って生きている君に、愛情はなくても、同じ人間として「惜しみない敬意と愛」を感じている。
つまり、一夜を共にした女性は大切には思えなくても、人間として見れば愛しい、ということ?
その女性のファスナーを上げてあげるのは、“優しいふり”ではなく、ある意味本当の優しさだということ?
…悔しいけれど、なんだか胸にしみる一曲だ。
TEXT:佐藤マタリ

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